廃墟は落ち着く
僕の趣味は変わっている。
廃墟めぐりだ。
学校が終わった後、自転車を飛ばしてススキ野原へ向かう。そこは高速道路のわきにある一面の平原。かつては家が建ち、電車が走っていた形跡もあるけれど、今ではその残骸が点在するのみ。僕はそこに退廃の美学を感じ取る。
電車の高架。橋げたが一本だけ残り、その上にはほんの数十メートルだけ線路が残る。どこへ続いていたんだろう。きっと図書館で郷土史を調べればわかるに違いない。だけど、そんなこと、どうだっていいんだ。こんな巨大な橋げたが、何か目的を与えられたかのように一人ぼっちで残されている。誰が、何の意思を持って?周りを見渡しても、そんな巨大建造物は他にありはしない。これはただ野原の真ん中で、いつからなのか、何の役に立つでもなく、じっと息を殺して時の流れに身を任せている。僕はそのふもとへ近寄って無機質なコンクリートの柱を手でそっと撫でた。ところどころ内部の鉄筋が飛び出し、赤茶けてうねるそれはまるで血管のようだ。
こういう場所で僕は一人思索するのが好きだ。さあ、もうすぐ夕暮れがやって来る。ススキ野原で風が吹く。ススキたちは冷たい風に吹かれていっせいにせわしなく揺れるだろう。高い空の上では、黒い雲たちが素早く流れていくに違いない。夕日を浴びて真っ赤になる橋げた。
誰も来やしない。こんな所に来る用事もない。忘れられた遺跡のような無為な建造物を愛する人間以外は。そんな変わった人間、滅多にいやしないさ。少なくとも、僕の周りには一人もいない。
僕は迫りくる寂しさと孤独さを感じ、そしてその甘美さを存分に楽しんでいた。
なのに、あの子は見ていたんだ。
「楽しそうね」
誰かが僕に話しかけた。橋げたの柱の向こう。誰かがいる。
「だ、誰?」
こういう場所はとても不気味だ。だから僕は好きなのだけれど、一人であるはずの場所で誰かに突然話しかけられる恐怖を察してほしい。
「くすくす……」
笑いながら柱の陰から姿を現した。女の子だ。僕と同じくらいの歳に見える。どこかの学校の制服を着ているけれど、僕と同じ学校でないということぐらいしかわからなかった。
「素敵ね、ここ」
女の子は僕に少しづつ近寄りながら橋げたを見上げている。長い髪がまっすぐ地面に向かって垂れ下がっている。それが吹き抜ける風になびいてさらさらと揺れた。
「私、こういう所が大好き」
女の子は僕に笑いかけた。
「あ、ぼ、僕も……」
突然のことにどぎまぎしてしまう僕。
「あなた、よくここに来るの?」
「え、ええと。わりとよく……」
「ねぇ、私もこれからここに来ていい?」
僕に断ったり許可したりする権利はない。ここは僕の土地じゃないし、この橋げたは僕の所有物でもない。ただ、ずっと独り占めしていた安らぎの場所を暴かれるような、そんな嫌気を少しだけど感じていた。
「だめかな?」
女の子はいたずらっぽい目で僕を見つめている。大きな目だな、と僕は思った。
「こ、こんな所、何が面白いんだ……」
「あら、くすくす」
女の子は可愛い笑い声をあげた。
「あなたはよく来るんでしょ? どうして?」
分かるもんか、僕の気持ちなんて。誰にも僕の哲学を覗くことはできないさ。
「ひと言じゃいえないよ」
「そう、わかったわ」
女の子はあっさりと引き下がった。もともと僕には興味がないのかもしれない。
「でもね、私は、ここが好き。ううん、面白いとか、そんなんじゃないの」
女の子は笑うのをやめて、ふっと無表情になった。
「……へぇ」
曖昧な返事しかできない僕。
「ほら、夕暮れよ。赤って素敵ね」
女の子が夕日を指さした。橋げたも、彼女も、赤く染まっていた。もちろん僕だって染まっていたけれど、僕のそれは夕日のせいだけじゃない。
「……僕、こういう風景が好きだ。空気も好きだ」
「うん、わかるよ」
女の子はまた僕に笑顔を見せた。夕日に染まったその笑顔は、本当に可愛かった。
「あの、いいよ。来てもいいよ。だけど、騒いだりしないでほしい」
思わず女の子に許可を出してしまう。少しえらそうだったかもしれない。
「ありがとう。うん、騒いだりしないわ。だって、そんなのもったいないでしょ?」
「もったいない?」
「……風の音。この子もしゃべりたがってるわ」
女の子は柱をゆっくりと撫でている。そんな発想、僕はしたこともなかった。でも、彼女は僕の愛する美学をわかってくれそうな、そんな気がする。
「そ、それから……ここのこと……」
「ううん。言わないわ。私たちだけの秘密」
何だか淫靡に感じた。うん、この女の子となら僕の秘密を共有してもいいな。
「ねぇ、私たち、集まらない?」
不意に女の子が嬉しそうに言った。
「あ、集まるって……」
「夕暮れにね、ここで集まるの。そして静かに時間を過ごすの」
「どういうこと?」
「えっとね……しいて言うなら、倶楽部みたいなものかな?」
「倶楽部……」
「邪魔はしないわ。お互いにね。ただ、ここを好きな私たちが一緒に過ごすの」
「うん……」
「どう? 素敵じゃない?」
僕の答えは決まっていた。僕と似たような人がいた事を知って、僕の心はとても弾んでいたのだから。
「い、いいよ」
「ほんと? 嬉しいわ。じゃあ、私たちの倶楽部の名前を決めましょ」
そんなものが必要なのか、僕にはわからなかったけれど、嬉しそうにはしゃぐ彼女を見て、それはきっととても大切なものなんだろうと感じた。
「えっと、じゃあ、廃墟倶楽部……とか」
「うーん、そうね。それだけじゃ私たちの特別な集まりには平凡すぎるわ」
僕はさっきから胸がドキドキしている。こんな事、一人で廃墟にいた時にはなかったことだ。これはゆゆしき事態なのか……それとも……。
「そうだ、夕暮れ。きれいな夕暮れが大好きなんだもの、私たち」
私たち、と言ってくれたことが僕にはとても嬉しかった。この子はまるで、さっき会ったばかりの僕のことをもう何でも知っているみたいだ。
「夕暮れ廃墟倶楽部。ふふっ、素敵だわ。とても素敵」
女の子は笑いながらくるっと回った。スカートがふわっと開く。ますますドキドキするじゃないか。
「じゃあ、約束ね。部長さん」
女の子がくすくすと笑いながらススキ野原を走り去っていく。ああ、今日はもう終わりなんだ。あれ?
「部長……?」
そっか。僕が倶楽部の部長なのか。だんだん遠くなっていく彼女の背中。僕はその背中をじっと見つめていた。やがてちっとも車の通らない道路に出た彼女は、こっちを振り返って手を振った。僕は照れくさくて、胸の前あたりで小さく手を振りかえしただけだったけれど、果たして彼女に見えていたのかどうか。
ひゅううううう
冷たい風が頬を刺す。だけど僕の体は熱かった。柱にもたれかかり、そのまま腰を下ろす。しばらく流れていく雲を見ていた。やがてそれは真っ黒になり、空も黒くなった。
「あの子、そうだ……名前……」
名前、訊き忘れちゃった。