序章 天下を望まぬ者
かつて、蒼華の地には一つの天下があった。
晏衡王朝は広大な大陸を治め、法を定め、道を拓き、諸侯を従えた。王朝の権威の下に、人々は田畑を耕し、商人は街道を行き交い、管理は法によって民を治めた。
しかし、いかなる王朝にも終わりは訪れる。
晏衡の威光が衰えると、諸侯はそれぞれに兵を起こし、やがて天下は赫蘭、朔岑、滄汀、翠淵、烏砂の五国に分かれた。
諸王は自らの正統を唱え、失われた秩序を取り戻すと誓った。ある者は法による統治を求め、ある物は豊かな国を築こうとし、またある者は祖先から受け継いだ土地と民を守ろうとした。
その志の全てが偽りであったわけではない。
王には王の責務があり、将には将の忠義があった。官吏は法を守ることで秩序を保とうとし、兵士は故郷に残した家族のために戦った。
だが、一国の安寧を守るために起こされた戦いは、別の国の田畑を踏みにじった。
国を富ませるために課された税は、民の暮らしを窮乏させることがあった。
秩序を守るための法は、ときに救われるべき者を追い詰め、平和を求める者の決断が、新たな争いを生むこともあった。
誰もが正しさを求めながら、その正しさが必ずしも他者の幸福にな結びつかなかったのである。
こうした乱世のさなか、赫蘭国南方の岑州に、一人の若者がいた。
名を、洛玲宇という。
後世、大同王朝の初代皇帝としてその名を知られることになる男である。
しかし、当時の彼は天下の行く末を論じる軍略家でも、諸侯を従える王でもなかった。
父を失い、家を継ぎ、妻と共に家と周囲の人々の暮らしを守ろうとする、一人の若き貴族にすぎなかった。
彼が望んだのは、争いのない世であった。
人々が飢えることなく、明日の暮らしを恐れず、家族と共に生きられる世。
それは、乱世を生きる多くの者が抱いた、ごくありふれた願いでもあった。
だが、世を変えることは、一人の願いだけで成し遂げられるものではない。
彼の傍らには、それぞれに異なる信念を持つ者たちが集まった。
家と人々を守るために現実を見据える者。
戦いの理を知るがゆえに、戦いを避けようとする者。
才を認められぬ境遇にありながら、学びと努力によって国を支えようとする者。
そして、敵として立ちはだかる者たちにもまた、守るべき国があり、果たすべき忠義があった。
彼らの誰もが、自らの選択の先に、より良い明日があると信じていた。
されど、理想は現実の前に幾度となく試される。
人を救おうとするたびに、別の誰かが犠牲になる。
戦いに勝てば新たな敵を生み、国を治めれば新たな不満が生まれる。
そして、長き争乱の果てに天下が一つとなったとき、人々はようやく知ることになる。
国を統べることと、民を幸福にすることは、必ずしも同じではないのだと。
後に成立した大同王朝は、争いのない世を理想に掲げた。
しかし、大同の名の下に築かれた新たな秩序もまた、人々の異なる願いと、相容れぬ正義の上に成り立っていた。
天下の統一は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな葛藤の始まりでもあったのである。
これは、一人の英雄が天下を得るまでの物語ではない。
これは、それぞれの理想を胸に生きた人々が、幾多の選択と葛藤を重ね、一つの時代を形作った物語である。




