人影は夢で笑う
カフェでアイスティーを飲み干した詩織は、長い髪をかき上げながら溜息を一つ漏らした。目の前では不安気な表情を浮かべる美鈴が、縋るような視線を投げかけてきている。週末で混雑している店内を窺ってから美鈴に答える。
「そんなこと言われても、私だって夢診断なんてできないわよ。それにただの夢でしょ?」
詩織はにべもない態度をとるが、美鈴はなおも食い下がった。目尻には涙さえ浮かべている。
「だって、毎日同じ夢を見るのよ? しかもあんな怖い夢……」
美鈴が詩織に相談している夢。それは確かに悪夢ではあった。
人の形をした黒い影が次々に人を殺していく夢。側にいる人にナイフを突き刺し、抉り、そしてまた次の獲物へ……。それが段々と鮮明に、そしてその影が近づいてくる、というのだ。
――所詮夢じゃない
詩織は再び、ふうと息を吐いた。吐き出した息と引き換えに、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。気分を落ち着けてから、手間のかかる妹をあやすようにその顔を覗き込んだ。
「わかった、わかった。今日は無理だけど、我慢できなくなったら私の部屋に泊まりに来てもいいから」
美鈴と高校で友人になって数年。彼女が引っ込み思案で友人が少ない事もよく知っている。大学に入学してもう一年が過ぎようとしているのに、いまだに詩織以外の友人は、数えるほどしかいないようだった。
「ありがとう、本当にありがとう」
大袈裟に感謝する美鈴の潤んだ瞳に、諦めたように微笑む詩織が映っていた。
――ここは……バスの中?
闇が覆う窓の外を、街灯らしき灯りだけが一瞬のうちに後方へ流れて消える。詩織は自身の置かれている状況を考えもせずに、流れる灯りを目で追いながら固い椅子に背中を預けた。
その刹那、エンジン音すら響いていない奇妙な静寂が不意に破られた。
悲鳴。続いて絶叫。
立ち上がった詩織の視界に映ったものは、凄惨な光景だった。
運転席周辺に立ち込める闇。その闇が乗客を襲っていた。いつしか闇は黒い人影の形を成し、無抵抗のままの乗客に何度も何度もナイフを振り下ろしている。呻き声とも悲鳴とも異質な、肉を抉る奇妙な音だけが車内に満ちる。
――これ……! 美鈴の夢……!
そう気付いた詩織に人影は遠くから向き直った。見えないはずの目と視線が合い、見えないはずの口元が僅かに笑ったのがわかった。
「ひっ!」
思わず叫んだ声は、現実の詩織の部屋で響いた。暗闇の中ではあるが、いつも通りのマンションの自室に間違いない。灯りをつけても黒い殺人鬼もいなければ、飛び散った鮮血も当然無かった。
「んっ、詩織? どうかした?」
いつもと異なるのは、詩織の隣で間抜けな声を上げた直樹の存在だった。点けた電気で目を覚ましたらしい。詩織と同様、情事の後でそのまま眠ったのだろう。綺麗に引き締まった素肌が、身体を起こした際にシーツから覗いている。
「あ、ごめん、起こしちゃったね。大丈夫だよ。怖い夢を見ただけだから」
慌てて灯りを消し、ベッドに滑り込んだ。自分も下着姿であったことに直樹の姿を見て気付いたのだ。さっきまで一糸纏わぬ姿で愛し合っていたのに、下着姿を恥ずかしいと思うおかしな感情に、少し夢の恐怖が和らいだ気がした。
小さな子を寝かしつけるように、直樹は詩織の頭を一定のリズムで軽く叩く。幸せな安心感に包まれ、直樹の胸に甘えるように詩織は再び目を閉じた。
翌朝目を覚ました時も、直樹の大きな掌が詩織を守るように添えられていた。二度目の眠りであの悪夢を見なかったのは、この手のおかげかもしれない、と一人微笑む。
ようやく起きて来た直樹と、用意した軽い朝食を二人でつまんだ。新婚夫婦のような静かな日曜の朝。特別に何かを話すわけでなくとも、ただ好きな人と同じ時間を共有できる事が嬉しかった。
「まだちょっと眠いなぁ」
サンドイッチをつまむ手を休めて、直樹は大きな欠伸をした。くすっとした詩織だったが、その原因が自分であったことに気づき、「夜中に起こしちゃってごめんね」と舌を出した。
「そう言えば洋介も、最近、怖い夢を続けて見てるってさ」
詩織のせいじゃないよ、という笑みを浮かべながら直樹はそう言った。
直樹と洋介は昔からの友人だ。詩織は恋人として紹介されていたし、洋介と美鈴は同じゼミだった。四人で遊ぶことも何度かあった。美鈴も洋介に気を許している。二人がいつ付き合うか、直樹と詩織は楽しみにしているくらいだ。もしかすると既に隠れてそういう関係になっているのかもしれない。
「へえ、どんな夢なの?」
「いや、詳しくは聞いてないから。今度尋ねておこうか?」
「そこまでしなくても別にいいよ」
せっかくの二人の時間をこんな無粋な話で無駄にしたくなかった。美鈴の夢や昨夜の自分の夢も気にはなったが、わざわざ今、そんな話をしなくてもいいと思えたのだ。
直樹に甘えようと身体を寄せた途端、携帯の着信音が響いた。間の悪い発信者に心の中で憤りつつ、部屋を移動し通話ボタンを押す。
「もしもし、美鈴? 朝からどうしたの?」
皮肉を込めてそう切り出したが、電話口の美鈴にそういったものを推し量る余裕はなさそうだった。
――助けて! もうだめ!
「どうしたの?」
――影が、あの影がもう目の前まで来てるの! 次寝たら私、捕まって殺されちゃうよ!
叫ぶ美鈴の声は真剣そのものだったが、今の詩織にはせっかくの時間を邪魔する声にしか聞こえない。
「じゃあ、寝ないでずっと起きてたら?」
――わかってる! だから今日寝ちゃわないように一緒にいて! 私が寝そうだったら起こしてよ!
冷たくあしらったつもりだったが、美鈴は涙声で叫び続ける。鬱陶しいとは思うものの、長い付き合いの中でここまで取り乱す美鈴を見るのも初めてだ。夢で捕まったら殺されるなんて馬鹿げた話は信じてはいないが、そう思いこむ美鈴の精神状態を心配する気持ちが確かに詩織の中に存在していた。
「わかった。じゃあ今晩おいでよ」
昼間はまだ大丈夫だ、と言う美鈴を夕方から部屋に招く事で話はまとまった。ダイニングに戻ると、食事を終えた直樹が肘をついて眠っていた。美鈴にも一緒にいて、守ってくれる人がいたら落ち着くのかな、と詩織はその無邪気な寝顔をしばし見つめた。
その夜、直樹と入れ違いになる形で美鈴は詩織の部屋へやって来た。
顔を見たら文句の一つも、と思っていた詩織も、そのやつれた美鈴を見ると何も言えないまま部屋に上げてしまった。
「でもさ、どうしてその夢で捕まったら死んじゃうって思うの?」
眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、夢の中で人影がもう自分の目の前にいる、という話を聞かされた詩織は尋ねてみた。昼間に直樹と出かけた疲れもあって、眠い目を擦っている詩織にしてみれば、美鈴が安心して眠ってくれた方が自分も楽なのだ。
「……わからない。でも、絶対捕まったら良くない事が起こるの。それだけはわかるんだ……」
答える美鈴は相変わらず真剣そのもので怯えてはいるが、さすがに彼女も眠いのだろう。先程から何度か伸びをしたり、頭を振ったりして眠気と闘っている。
他愛も無い話を続け、ようやく陽が昇る頃には、二人とも真っ赤な目をしていた。徹夜後の独特の体臭が自分から出ている気がする。
「私は大学に行くけど、美鈴どうする? このままいてもいいよ?」
シャワーを出て、何杯目か数えるのをやめたコーヒーを流し込む。昨日は苛立ちもあったが、ここまで本気で悩む友人を気遣う気持ちが詩織の中では大きくなってきていた。
「ううん、ずっとお邪魔するわけにもいかないし、一度帰ってどこかに出かけておくね」
そう寂しく笑った美鈴は自分の荷物をまとめ始めた。確かに一人で家の中にいるよりも、陽が昇る中なら外出していた方が眠ってしまう事はないだろう。「そう」と頷いて、荷物を片付ける美鈴の横で長い髪を乾かし、全身の映る大きな鏡の前で自分だけメイクをする。しばらく美鈴を待たせた後、一緒に部屋を出ると、詩織は大学に、美鈴は一旦自宅へと別々に向かう。
「じゃあね。あんまり悩まないようにね」
目も眩むような夏の朝陽の中、美鈴が別れ際に手を振る。その見慣れた姿を詩織は欠伸をしながら見送った。
「……っ!」
ガタッと詩織の座っていた椅子が大きな音を立てる。
「よくお休みでしたね」
教壇に立つ教授から厭味を聞かされ、ようやく自分がゼミの最中に眠っていた事が把握できる。午前の間は眠気にも耐えたが、昼食後のこの授業ではとうとう眠気に負けたのだ。周囲から漏れる笑い声に、頭を掻いて再びペンを手に取った。だが、詩織の鼓動の激しさは収まらない。
――なんで? なんで私も……?
あの夢だった。
美鈴が怯え、助けを求めてきたあの夢。
しかも美鈴の言う通り、黒い人影は最初にいた運転席近くから、間違いなくこちらへ向けて数歩進んできたのだ。そしてそこで再びナイフを次の獲物へ振り下ろしていた。まるで昨日の続きだと言わんばかりに、運転席近くには肉塊と化した赤黒いものが横たわっているのもわかった。
一度美鈴と同じ夢を見たくらいならば、その話を聞いて無意識に見たんだ、とでも笑える。だが二日続けて美鈴の言う通りの夢を見るなんて事があるだろうか。詩織を得体の知れない恐怖と不安が支配し、その身体を小刻みに震わせる。
残りの授業への出席を諦め、逃げるようにマンションの自室へ戻った。残っていたコーヒーを飲んで少しでも目を覚まそうとする。
「そうだ、直樹に来てもらって……」
電話をかけようと携帯を手にした途端、玄関のチャイムが鳴った。直樹が来てくれたのか、それとも美鈴が戻って来たのか。いずれにせよ一人でいたくなかった詩織は玄関へ急いだ。
「警察です」
扉の向こうで告げられたその言葉に、安心感と同時に先までの不安がまたしても広がっていく。
スーツ姿の二人組が事務的な口調で美鈴の死を告げると、詩織はその場に膝から崩れ落ちた。慌てて駆け寄る二人の声は、詩織の耳には届いていなかった。
再び梅雨に入ったのかと思うような鬱陶しい雨の続く中、美鈴の葬儀は彼女の実家近くの斎場で行われた。美鈴の通夜と葬儀に参列するため、詩織も実家に戻ってきている。
「大丈夫か?」
心配そうに詩織を覗き込む直樹も、わざわざ新幹線で駆けつけ、葬儀に参列してくれた。洋介も誘ったのに、返事は無いままだったという。
葬儀の際に昔からの友人の顔も見えたが、詩織は直樹の側から離れようとしなかった。
美鈴はマンションの自室で死んでいた。隣室の老夫婦も無惨に刺殺された遺体で発見された。美鈴の事を尋ねていったあの刑事の行動からすると、警察は美鈴が老夫婦を殺害して衝動的に自殺した、と考えているのかもしれない。
――そんなことあるはずがない
美鈴がそんな子でないことは自分がよく知っている。そして何より、あの夢だ。
「捕まったら殺されちゃう」
電話の向こうの美鈴は真剣そのものだったし、その後も本当に怯えていた。あの別れ際に見た姿が、美鈴を見た最後になる。自殺や事故ならまだしも、あの後に殺人なんて起こすわけがない。
それに美鈴のあの時の恐怖感は、詩織にも今となっては手に取るようにわかる。
美鈴の葬儀までの数日間に、詩織の夢の中の人影は、血の雨を背景にもう目の前まで迫ってきていた。後、数回で美鈴のように捕まってしまう。いや、もう次かもしれない。
家族に夢の話をして「寝たくない」と頼んでみても、美鈴の事で精神的に疲れているだけだ、と相手にしてもらえなかった。結果、いつの間にか眠りに落ち、あの夢を見てしまったのだ。
「えっ……」
不意に隣で携帯で話をしていた直樹が、声を上げて詩織を振り向いた。その目は大きく見開かれ、心なしか血の気も引いているようだった。
「どうしたの?」
「洋介が……行方不明って……」
震える声で直樹は答えた。沈黙の中、雨の音だけが不意に強くなったように詩織は感じた。
実家へ泊まらずマンションに戻った詩織は直樹を離さなかった。一人でいるのは避けたくて、一緒にいてもらう事にしたのだ。泣きついて頼み込む自分の姿に、数日前の美鈴を微かに思い出す。
「なんであいつ、そんな事を……」
詩織を気遣いながらも、直樹は時々そう呟いている。
洋介の部屋で遊びに来ていた友人が刺殺されているのが発見された。台所にあった包丁が凶器で、部屋の持ち主である洋介は行方不明になっていた。発見当時、部屋は血の海だったらしい。
その間も詩織はある事を思い出して震えていた。
――そう言えば洋介も、最近、怖い夢を続けて見てるってさ
もし、その夢が自分や美鈴と同じ夢だったとしたら……。もはや確かめる術はないが、そうだとしたら洋介も殺されているのではないか。美鈴も自殺ではなく、やはり影に殺されたのではないか。そして自分も二人のように……。
恐怖が詩織を支配していく。
「もう寝た方がいいよ」
詩織の疲れた様子を見かねたのだろう。直樹がそう声をかけるが、詩織は激しく拒否をした。驚いたような、困ったような顔をしながらも、直樹は詩織を安心させて再三眠るよう促してくる。
「笑わないで聞いてね」
全てを話そうと思い、涙を流して詩織はそう懇願した。直樹が素直に応じてくれたのは、詩織に鬼気迫るものがあったのかもしれない。
「ずっと同じ夢を見るの。美鈴と同じ夢を」
詩織が嗚咽を交えて語る間、直樹は黙って話を聞いていた。
話し終えてからも詩織の嗚咽は止まなかった。話しているうちに、自身の死への恐怖だけでなく、美鈴や洋介といった身近な友人を失った哀しみも同時に襲い掛かってくるようだった。
半信半疑の顔をしていた直樹だったが、震える詩織をしっかりと抱き締めると頭を撫でた。
「大丈夫。お前は俺が守るから。それにそこまで寝たくないなら……」
「お邪魔しまあす」
一時間も経たないうちに詩織も見知った直樹の後輩が、恋人の女性を連れてやって来た。短く整えられた髪が可愛らしい女の子だ。一人だと自分も寝てしまわないか心配だから、という直樹の提案。それに四人もいればゲームでも出来るから、ということだった。
最初こそ緊張した面持ちだった後輩二人も、酒を飲んでいる間に打ち解けてくれたようだ。直樹が気を使って会話を促してくれているからでもあった。
酒を飲みながらの恋愛話。そんなものであっけないほど時間は簡単に過ぎていく。お酒がなくなりそうという後輩の言葉で時計を見た時には、既に午前三時を回っていた。
「んじゃ、俺ちょっと買い物行ってきます」
「いや、いいよ。お前この辺り詳しくないだろう? 俺がぱっと自転車でコンビニまで行ってくる」
立ち上がった後輩を止め、直樹は詩織の自転車の鍵を借りる。店までちょっと距離があるので確かに自転車で向かった方が早い。それに直樹も実はもっと飲みたいのかもしれなかった。
直樹を見送ると、また三人で他愛も無い話を続ける。くだらなくも楽しい会話に詩織の不安も薄れていくようだった。
「ねえ、詩織さん起こさないでいいの?」
聞き慣れない女性の声が遠くで聞こえる。
――誰だっけ? あの声……
そんな疑問を感じたのは一瞬だった。
詩織はバスの座席に座っていた。斜め前の座席では黒い影が背中を向けてナイフを振るっていた。周囲には動かなくなった人の成れの果てが飛び散っている。
「やっ!」
自分で叫んだ声が遠くに聞こえる。その静かな車内に響いた声で人影はゆっくりと振り向いた。銀色のナイフに赤黒い血を滴らせ、音も無く静かに詩織との距離を詰める。
詩織はただその影を見つめる。逃げ出しもしない。抵抗もしない。もう声も上げない。
ただ影が目の前まで迫ってくるまで見つめていた。
目の前まで来た黒い影は、詩織の顔を覗き込んだ。目も鼻も何も無い、影の顔であろう部分に詩織もじっと視線を据える。
不意に黒い顔が笑った。見えてはいないが、確かに笑った。
次の瞬間、ぐいっと顔を寄せてきた影に色が着く。顔も体型も、全てが鮮明になった。影から生まれた長い髪が、さらっと詩織の頬に触れる感触まであった。
血塗れのまま詩織を覗き込んで笑うその顔は――――詩織自身だった。
「いやあああっ!」
詩織の叫び声は再び彼女の自室で響いた。張り裂けるほどの速さで心臓が胸を打つ。背中には壁の感触があった。詩織は壁にもたれかかった体勢でテーブルに向かっていた。テーブルの向こうでは短髪の女性が驚いたような顔で詩織を見つめている。
――ね、寝ちゃった?
思考がまとまらないが、今、現実で生きているのは間違いない。
「い、生きてる」
詩織が安堵したのは数秒だった。テーブルの側の大きな鏡が、悪夢から目覚めたばかりの詩織を映し出している。
鏡の中の詩織は微笑みを浮かべていた。
冷たく、残忍で、美しく狂気に満ちた笑みを。
詩織の意思とは関係なく、身体が動き始める。言葉が出ない。心は間違いなくここにあるのに、自分の目で間違いなく世界を見ているのに。
詩織は立ち上がり、きょとんとする女性を一瞥する。必死に助けを求める詩織の想いは、ただの想いでしかなかった。女性を蹴り飛ばすと、そのまま奥のキッチンへ向かう。足に慣れない痛みが走った。
――だめっ!
キッチンで使い慣れた包丁を掴む。口角が上がったのがわかる。「彼女」が笑ったのだ。
そのままリビングへ戻ると、顔を顰めてこちらを見つめる女性の顔が恐怖に慄いた。だが「彼女」は躊躇しなかった。彼女の腹を突き刺し、その頸部を掻き切る。
悲鳴を上げることもなく、女性は痙攣する。「彼女」を通して映る世界を赤く染めながら。苦い鉄の味が詩織の口内に広がっていく。
背後で水音がした。トイレからだ。「彼女」はゆっくりと振り向き、そのままトイレへ向かった。
「あ、お手洗いお借りし――」
扉を開けた男性の目が見開かれる。驚いた顔のまま、彼は自分の腹部を見つめる。「彼女」はそんな彼に微笑みながら、引き抜いた血に染まった刃を再び彼の中へ戻す。躊躇わない。悩まない。畏れない。
淡々と「彼女」は作業を進めた。詩織は再度赤い世界を見た。ただの赤ではない。むせ返る臭いの立ち籠めた赤黒い世界を。
「もう、返すね」
初めて「彼女」が口を開いた。その声は聴き慣れた詩織本人の声だった。視界が歪み、身体が、いや詩織の心が、ぬめぬめとした不快な膜に包れ、奈落の底へ墜ちていく。
詩織は呆然と赤い世界の中にいた。手には包丁が握られ、身体は世界と同じ色に染まっている。苦い味がより鮮明に舌先で暴れる。
力が抜け、跪いて嘔吐する。微かに鉄の味がした。
嘔吐を終えた詩織の目前には、陽気にお酒を飲んでいた後輩があった。彼の手には長い髪がしっかりと握られている。その長い髪が、この凶行が間違いなく詩織によるものだと語っていた。
衝動的な行動だった。詩織は弾かれたようにベランダへ躍り出た。途中、女性がいまだにその傷口から赤い世界を描いているのが見えた。
詩織は飛び立つ。夜の空に美しく染まった紅の羽を広げるように。
遠くで詩織を呼ぶチャイムの音が聴こえた気がした。
――殺されるんじゃなくて……殺す側……
宙を舞う詩織の中に様々な想いが駆け巡った。
美鈴は本当に自殺だったのだろう。目覚めた時、自分が犯した行動に耐え切れなくなって自ら……。そう、私のように……。
――直樹を殺さないでよかった
些細な喜びを見出した想いが途切れる寸前、詩織は気づいた。
あの夢を見始めたのは、美鈴から話を聞いた直後であった事に――
そして詩織も、直樹と家族にその夢の話をしてしまった事に――
了
作者注:自転車は軽車両ですので、飲酒した状態で乗ると、道路交通法違反になります。