第5話:寝返りは移動手段ではありません
「「はぁ、はぁ……。信じられない、あの数の『深紅の吸針』を、あくび一つで……」
アリシアはその場に崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、レイピアを鞘に収めた。
周囲には、空間ごと圧殺された魔虫の残骸すら残っていない。
ただ、何事もなかったかのように静寂が戻っているだけだ。
「「マスター! 同接が10億を超えました! スパチャの滝で画面が見えません! 『寝顔が国宝級』というコメントと『起きろ人類の危機』というコメントが戦争しています!」
ナビちゃんが回転しながら叫ぶ中、震源地である佐藤レンが、不満げに眉を寄せた。
「ん……硬い……。もっと……ふかふかの……ウォーターベッド……」
その寝言が、世界を構成する理を書き換える。
ズズズズズ……ッ!
突如、レンが横たわっていた岩盤が泥のように液状化し、彼を優しく包み込むゼリー状のクッションへと変質した。
さらに、その流体岩盤は物理法則を無視して浮遊を開始する。
「えっ? 地面が……液状化して浮いた!? ちょ、ちょっと待ちなさい!」
アリシアが慌てて飛び乗った瞬間、レンを乗せた『動くベッド』は猛スピードでダンジョンの奥へと滑り出した。
「うわああああ! マスター、速いです! 時速80キロ出てます! 視聴者が『ドリーム・エクスプレス』ってタグ作り始めました!」
「なっ、何なのよこれーーッ!?」
流れる景色は、岩肌の洞窟から、見たこともない幻想的な空間へと変わっていく。
壁面を埋め尽くす巨大な発光クリスタルが、地底とは思えないほどの光量で周囲を照らし出していた。
「ここは……『静寂の水晶森』!? 未踏破領域のさらに奥、文献にしか存在しない場所よ! こんなところを観光バス気分で通り抜けるなんて!」
アリシアが驚愕に目を見開く。
クリスタルの陰には、通常なら遭遇しただけで死を覚悟するような異形の魔物たちが潜んでいた。
しかし、それらはレンを乗せた台座から放たれる『安眠を妨げるな』という無言の重圧に怯え、手出しすることなく震えている。
一方、地上の探索者ギルド本部・司令室では、黒鉄ゲンがモニターの前で顔面蒼白になっていた。
「おい、座標を確認しろ! 彼が向かっている方角は……」
オペレーターの悲鳴のような報告が響く。
「深度更新! 過去の記録を大幅に突破! このルートは、世界で唯一Sランクパーティが全滅したエリア……『竜の墓場』へと繋がっています!」
「馬鹿な……。あそこには、神話級の怪物が眠っているんだぞ。それを起こしに行くつもりか、あの『眠れる獅子』は!」
黒鉄が頭を抱える中、レンの乗った台座は広大な地下空間の崖っぷちで静かに停止した。
眼下に広がるのは、巨大な生物の骨が山のように積み重なる、死と静寂の絶景だった。
「ふぅ……涼しい……」
レンは満足げに寝返りを打ち、ヴォイド・コアの枕に顔を埋めた。
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【場所】
- 静寂の水晶森: 奈落の揺籠のさらに奥深くに存在する未踏破エリア。巨大な発光クリスタルが林立し、幻想的だが強力な魔物が潜む場所。
- 竜の墓場: 過去にSランクパーティが全滅した記録がある最奥の危険地帯。巨大な生物の骨が山積している。
【アイテム・用語】
- 流体岩盤: レンの「ウォーターベッド」という寝言に対し、土魔法と流体操作が複合して発動した現象。岩盤をゼリー状に変質させ、自律移動する浮遊台座。




