第4話:微睡みの守護者と羽音の脅威
「はぁ、はぁ……! 魔力が、抜けた……?」
強烈な熱波が去り、アリシアはその場に膝をついた。
レンの寝言による支援魔法『解析:熱源供給・最大出力』の効果が切れ、反動による脱力感が彼女を襲う。
「マスター! 同接が8億を超えました! コメント欄が早すぎて『草』の文字で画面が埋め尽くされています!」
「この状況で呑気なことを……! いい、ナビちゃんと言ったわね。今のうちにこの男を連れて撤退するわよ」
アリシアはレイピアを杖代わりに立ち上がる。
ここは『奈落の揺籠』人類未踏の最深部だ。
この世界のルールとして、高濃度の魔力が放出された場所には、その残滓を嗅ぎつけたさらなる捕食者が集まってくる。
「立ち止まることは死を意味する。それが深層の鉄則よ。特にこんな無防備な――」
『ブゥゥゥゥゥゥン……』
不快な羽音が、暗闇の奥から響いた。
アリシアの顔色が蒼白に変わる。
「嘘でしょ……この音、まさか」
闇の中から現れたのは、真紅の複眼を持つ巨大な蚊の群れだった。
一匹のサイズが人間の頭ほどもある。
「深紅の吸針……!?」
それは、Sランクモンスターに分類される凶悪な害虫だ。
硬質な装甲をも貫く長い口吻を持ち、一刺しで成人の血液をすべて吸い尽くす。
しかも、彼らは常に数百の群れで行動する。
「まずい……今の私じゃ、この数を捌ききれない!」
アリシアは歯噛みしながら、眠り続けるレンの前に立った。
通常の探索者であれば、即座に逃走を選択する場面だ。
だが、背後の男は幸せそうに寝息を立てている。
「キシャァァァ!」
先頭の数匹が、弾丸のような速度で突っ込んできた。
アリシアは必死にレイピアを振るう。
「くっ、速い……!」
数匹を撃ち落とすが、赤い雲のような大群が押し寄せる。
全方位からの飽和攻撃。
そのうちの一匹が、アリシアの防衛線をすり抜け、レンの無防備な頬へと狙いを定めた。
「しまっ――起きなさいバカ!!」
アリシアが叫んだ、その時だった。
レンの眉が、ピクリと動いた。
「……んん……ぷ~んって……耳元で……」
彼は寝袋の中で身じろぎし、鬱陶しそうに眉間を寄せる。
「……うるさいなぁ……あっちいけ……(寝言:『空間拒絶・掌打』)」
レンがふらりと右手を上げ、空中の「何か」を払うように軽く平手を振った。
パァンッ!!
乾いた音が響く。
直後、空間そのものが巨大な「掌」の形に歪んだ。
「え?」
アリシアが瞬きをする間もなかった。
レンの掌から放たれた衝撃波は、物理的な質量を持って空間を圧殺した。
迫りくる数百匹の『深紅の吸針』の群れが、まるで目に見えない巨人の手でハエ叩きにされたかのように、一瞬にして壁面へ叩きつけられ、プチリと潰れたのだ。
ダンジョンの壁に、無数の虫の死骸がへばりつく。
「……ふぅ……静かになった……むにゃ……」
レンは満足げに再び寝返りを打ち、ヴォイド・コアの枕に顔を埋めた。
静寂が戻った『奈落の揺籠』で、アリシアは呆然と立ち尽くす。
「Sランクの群れを……蚊を叩くみたいに……」
「アリシア様、マスターの心拍数は依然として平常です! まさに安眠妨害を排除しただけのようです!」
「……この男の周りだけ、世界の常識が通用しないのね」
世界ランク2位の聖女は、深い、深いため息をついた。
彼女の常識が崩壊する音が、ダンジョンの暗闇に虚しく響いた。
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【アイテム・用語】
- 深紅の吸針 (ニードル・スティンガー): Sランクの昆虫型モンスター。巨大な蚊の姿をしており、硬質な装甲も貫く口吻で血液を啜る。数百匹単位で群れを成すため、高ランク探索者でも遭遇したくない相手。
- 空間拒絶・掌打 (パーム・リジェクション): レンが「蚊を払う」動作と寝言によって発動させた空間魔法。指定方向の空間座標を物理的に押し潰し、対象を圧殺する。本来は高度な攻性防壁魔法だが、レンはハエ叩きとして使用した。




