第3話:紅蓮の聖女は、寝顔に戦慄する
「マスター! いい加減に起きてください! 同接が7億人を超えました! サーバーが焼き切れる音を聞いたことがありますか!? 私はあります、今まさに聞こえています!!」
奈落の揺籠。
かつて人類が到達し得なかったその絶対不可侵領域は、現在、一人の男の寝室と化していた。
周囲一帯を氷漬けにした後、佐藤レンは「んぅ……ちょっと寒い……」
と呟き、安物の寝袋を肩まで引き上げただけだった。
その無防備すぎる姿に、自律型配信AIドローンのナビちゃんは、処理落ち寸前のCPUで絶叫を上げ続けている。
コメント欄はもはや文字の濁流だ。
『神の午睡』『人類には早すぎる配信』『起きるだけで世界が終わりそう』といった崇拝と恐怖の言葉が、秒間数万件の勢いで流れていく。
一方、地上。
高級マンションの一室で、その光景をタブレット越しに見つめる少女がいた。
燃えるような赤髪に、宝石のような真紅の瞳。
世界ランク2位、『紅蓮の聖女』アリシア・ヴァーミリオンである。
「……待っていられないわ」
彼女は震える手でタブレットを置くと、クローゼットの奥から桐箱を取り出した。
中には、国家予算並みの価値を持つS級アーティファクト『転移の宝珠』が鎮座している。
本来なら緊急脱出用に使うべきそのアイテムを、彼女は躊躇なく鷲掴みにした。
「ギルドの救助部隊なんて待っていたら、彼が寝返りを打つだけで国が一つ消えるかもしれない。確認しなきゃ……あれが本当に、失われた魔法なのかどうかを!」
光が部屋を包み込む。
次の瞬間、空間が歪曲し、アリシアの身体は奈落の底へと転送された。
冷気と死の気配が漂う、奈落の揺籠。
空間転移の眩暈を振り払い、アリシアは目を見開いた。
そこには、映像で見た通りの光景が広がっていた。
氷像と化したSランクモンスターの群れ。
そして、その中心で安らかに寝息を立てる、Eランク探索者の青年。
「っ……本当に、寝ているの……?」
アリシアは音もなく彼に歩み寄る。
警戒を最大レベルに引き上げ、腰のレイピアに手を掛けながら。
近づいて初めて気づく異常性があった。
彼が枕代わりにしている黒い球体。
それは、先ほど彼が消滅させたヴォイド・ドラゴンの心臓部、『ヴォイド・コア』ではないか。
魔力資源として計測不能な価値を持つその宝玉を、彼はあろうことか、高さ調整用のクッションにしていた。
「ふざけてる……! この男、常識という概念ごと寝かしつけているの!?」
その時だった。
氷像の影から、生き残っていたモンスターが音もなく飛び出した。
『影喰らい(シャドウ・イーター)』。
実体を持たぬ影の魔獣が、無防備なレンの首元へと牙を剥く。
「しまっ――!」
アリシアが抜剣するよりも速い。
間に合わない。
そう思った刹那、レンが不機嫌そうに眉を寄せ、むにゃむにゃと口を動かした。
「……暖房……強めで……」
カッ!!
レンの言葉が、世界に干渉する。
『解析:熱源供給・最大出力』
その瞬間、アリシアの身体が紅蓮の炎に包まれた。
いや、焼かれているのではない。
彼女の魔力回路に、強制的に膨大な熱量が注入され、身体能力と魔力が爆発的に強化されたのだ。
「な、なにこれ!? 私の魔力が、沸騰して……!?」
戸惑う間もなく、影喰らいが迫る。
アリシアは無意識にレイピアを振るった。
たったそれだけの動作から、巨大な炎の斬撃が放たれる。
ゴォオオオオオッ!!
影喰らいは悲鳴を上げる暇もなく蒸発し、余波でダンジョンの壁が数百メートルにわたって溶解した。
「嘘……これが、私の力……?」
呆然と立ち尽くすアリシアの背後で、レンは満足げに『ヴォイド・コア』に頬ずりをした。
「んん……あったかい……」
ナビちゃんが、カメラレンズをぎぎぎ、とアリシアに向ける。
「あー、もしもし? そこにおわすのは世界ランク2位のアリシア様でしょうか? ……とりあえず、この状況を説明していただけます? 私のAI(脳みそ)、もう限界なんですけど」
アリシアは、溶解した壁と、燃え盛る自分の剣、そして幸せそうに寝ているレンを交互に見つめ、力なく呟いた。
「……私も、夢を見ていると言ってちょうだい」
-------------------------------------------------------------------------------------
【登場人物】
- 影喰らい (Shadow Eater): 敵モンスター(隠密型・討伐済み)
【アイテム・用語】
- 転移の宝珠: S級アーティファクト。登録した場所や座標へ瞬時に移動できる使い捨てアイテム。国家予算並みの価値がある。
- ヴォイド・コア: ヴォイド・ドラゴンからドロップした心臓部。莫大な魔力を秘めた黒い球体だが、現在はレンの枕(高さ調整用)として使用されている。
- 解析:熱源供給・最大出力 (ヒーター・マックス): レンの「暖房強めで」という寝言が変換された支援魔法。対象者に過剰な熱エネルギーを与え、炎属性攻撃力と身体能力を劇的に向上させる。




