1話
「――――――――――」
焼け焦げた赤黒い空の下、老人は一人立っていた。
熱風が運ぶ黒煙と血の匂いが、老人の顔を歪ませた。
惨状などという言葉では生温い。
稲光と、火柱と、瓦礫の山。そして、肉塊と化した無数の死骸が地を覆い、老人の視界を埋め尽くす。
「ああ、懐かしいねえ。勇者様」
不快な嘲笑が老人の鼓膜に響く。
漆黒のローブを身に纏い、赤く輝く瞳が老人を見据える。
半世紀前に虚無へと葬ったはずの存在が、そこにはあった。
「しっかし、しわしわな顔になっちゃって。あんなにかっこよかったのにねえ」
「お前は変わらないのか? いや、存在を忘れていてな。どんな姿だったか思い出せんのだ」
「――へえ、余裕ぶっちゃって、必死だねえ。僕が復活するなんて、思ってもなかっただろ?」
事実だった。
二度とその姿を見ることも、二度とその声を聞くこともないと思っていた。
目の前に聳え立つ『魔王』と呼ばれる存在は、50年前に完全に消滅させたはずだった。
「なんで、とか、どうやって、とか、聞いても教えないよ。今から殺されるじじいにはどうでもいいと思うけどね」
「一度消されている分際で、大した自信だな」
「まあね、あの頃の君ならチャンスはあるかもだけどさ? この――ヨッボヨボなじじいに――ブフッ―何が、できんのさ」
堪えきれないように、魔王は瞳に涙を浮かべる。
実際、老人の力は50年前の10分の1以下だ。
勝ち目、などという言葉さえ烏滸がましさを感じるほどに状況は絶望的なのだ。
「ところでさ、」
魔王が口角をあげる。
これから紡がれるであろう言葉に、老人の鼓動が跳ねる。
「君と同じ血を持ってる奴を二人、殺したよ。ああ、安心しなよ。 ちゃーんと、苦しめてあげたからさ!」
「――死ね」
静かな言葉と共に、老いた体を閃光のように走らせ、全ての力を込めて一撃を振るう。
それは、かつて世界を救った英雄の、渾身の一撃。
しかし。
「おっそ」
ただ、首を傾げただけでその一撃を交わされる。
刃が空を裂き、老人の体は地面へと叩きつけられた。
「グッ!」
「あんなに強かった勇者様が、こんなおじいちゃんになってるとか悲しいよ」
魔王は赤い瞳を細め、ため息をつく。
「ねえ、あの二人って君の子供? 若い方は、孫かな? あ、悲鳴をたくさんあげていた方ね」
「き、貴様ァァァッ!!」
「あれれー、怒っちゃったねえ。確か君の恋人を殺した時もそんな顔だったね――あははははっ!」
老人の剣が唸りを上げる。
それは、人には到底たどり着けない技術と速度。
だが、当たらない。当たるはずがない。
時間の残酷さが、老人へ現実を突きつける。
50年という月日は、人にとってこれほど残酷なのだ。
「勇者様ァ! どんな気持ちですかあ!? 愛する人も、子供も、孫も、僕に殺されちゃってさあ!?」
老人の腕が折れる。膝が砕ける。
愛すべきものは全て奪われた。
しかし、それでも動き続ける。それでも、世界を守り続ける。
魔王はその姿に、さらに笑い声を高めた。
「アハハハハハ! ほーら、頑張れー勇者様ァ!」
魔王の拳が老人の体を抉り、肉を裂く。殴られ、蹴られ、立たされ、嬲られ。その繰り返し。
一体どれだけの時間、蹂躙され続けたのだろうか。
「あーすっきり。君の顔、最高でしたー。じゃ、そろそろ殺しまーす」
魔王の言葉に、老人は膝をつく。
観念したか、と満足げに近づく魔王は、その異様な雰囲気に表情を少し固めた。
「何を――している?」
膝をつき、俯いたまま、老人は笑った。
気付けば二人を囲むように紋章の形をした丸い円が地面に描かれていた。
老人の血で描かれたそれは――――魔法陣。
この世界で勇者にのみ許された最大級の呪文詠唱。
魔王の顔が、凍り付く。
「お前、いつから――――」
「最初から、貴様に勝てるなど思っていない……」
魔法陣が赤く輝く。
すでに二人の体は見えない力で束縛され、身動きが取れなくなっていた。
「お互い、消えようじゃないか、時空の果てへ」
瞬間、黒い光が二人を包んだ。
それは時空魔法。世界の理を崩す、最上級の禁忌魔法。
魔法陣の中の存在を、過去も、未来も、因果も、世界すらも超越し、どことも知れぬ時空へ強制的に転移させる。
「勇者ァ!! ふざけるなああああ!!!」
黒い渦が唸りを上げ、二人の存在を別の時空へと引きずり込んでいく。
かつて、恋人が愛した世界、息子と孫が守ろうとした世界だけは救って見せると。
涙がこぼれないように、ゆっくりと、老人はその目を閉じた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――――んっ」
ぼやける視界の情報が、老人の脳を揺らす。
力を振り絞って、重い瞼をなんとか開ける
柔らかい布の感触と、鼻孔をくすぐる薬草の香りで、老人の意識は徐々に覚醒していく。
「よかった……! 目を覚ました……!」
小さな手が、そっと額をなでる。何だか懐かしい安堵と優しさが、その指先に宿っていた。
どうやら、この少女に助けて貰っていたようだ。
「……すまない……ありがとう……」
かすれた声でお礼を言う。
少女は柔らかく微笑むと、水で濡らした冷たい布をそっと額に置いた。
「おじいさん、街はずれの森の中で倒れていたんですよ。何かあったんですか?」
「……ああ、色々とな」
話す気がないことを悟った少女は、特に不快な表情も見せず、そうですか、とだけ返した。
「まだ、ゆっくりと休んでください。お体、凄く傷ついているようです」
「……すまない、そうさせてもらう」
老人の視界が鮮明になっていくにつれて、少女の顔がはっきりと見えてくる。
「…………ッ!!」
思わず叫びそうになる声を何とか抑える。
衝撃で、手が、足が、鼓動が震える。
そんな事があるか、と混乱する思考で、何とか声を絞り出す。
「……君、名前はなんて言うんだ?」
老人の質問に、少女は懐かしい笑みを見せて答える。
「リオナです。リオナ・フェブリート」
それは、お互いに愛を誓い合った――命を賭して守ろうとした――。
リオナ・フェブリート。
50年前魔王に奪われた、最愛の人の名前。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――