木洩れ日の約束
春になり、風がやわらかくなってきたころ。
詩織は、教室の隅にいる転校生に目が止まった。
透という名前のその少年は、ほとんど誰とも話さなかった。
先生に話を振られても、うなずくだけ。
誰かが話しかけても、軽く首を横に振る。
だけど、詩織にはわかった。
透のまわりに、風が止まっていた。
「……ねえ、木ってさ、話すの知ってる?」
放課後、教室にふたりきりになったとき、詩織はぽつりと声をかけた。
透は、驚いたように彼女を見つめた。
「風が吹くと、葉っぱが揺れて、木が話すの。
“ここにいるよ”って。静かだけど、たしかにそう言ってる気がするの」
透は少しだけ眉を動かし、ノートに何かを書いた。
『きこえたことある』
その字は、震えていたけれど、まっすぐだった。
詩織は、そっと微笑んだ。
「わたし、ずっと“何もない自分”だと思ってた。
でもね、ただそこにいて、誰かの風を感じるだけでも、
何かが届くことがあるって知ったの」
透は、少しだけ目を伏せ、そしてもう一言書いた。
『君の声も、風みたいだった』
その瞬間、教室の窓からやさしい風が吹いた。
カーテンが揺れて、日差しが二人を包む。
「ありがとう」
透の声は小さく、けれど確かに風の中で響いていた。
⸻
それから詩織は、少しずつ誰かに声をかけるようになった。
何を言うかではなく、**“言葉が風のように届けばいい”**と信じられるようになったから。
透は笑うようになり、言葉を少しずつ紡ぎ始めた。
詩織の中には、もう「空っぽの自分」はいなかった。
風が吹けば思い出す。あの少年と、あの静かなやさしさを。
それが、わたしの役割。
きっとまだ名前のない、小さな風のようなもの。