月の牢獄
静寂の海――それが、月の世界の呼び名だった。
白く輝く石の大地、透明な空気、そして一切の感情が許されぬ、冷たく整った社会。
かぐや姫はその中心にいた。
だが、彼女の胸の内には、長く抑え込んだ熱が、今も消えずに残っていた。
地上に降り立ったあの数十年――
それは月の時間にして、ほんのわずかな“実験”だったと、月の長老たちは言った。
だが、かぐや姫にとっては、何千年の時よりも濃密で、鮮やかな時だった。
「地上での記憶は、抹消するように」
月の掟では、地上で得た感情や記憶を“清め”によって消すことが義務とされていた。
だが、かぐや姫はそれを拒んだ。
禁忌だった。だから彼女は、この世界で“半ば幽閉”される存在となった。
彼女の居る場所は、かつて宮殿と呼ばれたが、今では閉ざされた空間だった。
感情を持ち帰った者は、月にとって異物だった。
かぐや姫は、月に戻ったその日から、静かに罪人として扱われていた。
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彼女は毎晩、月の中庭に出て、地上の空を見下ろした。
果てしなく続く宇宙の向こう、青く美しい星――地球。
そのどこかに、彼はいる。
あの夜、不死の薬を渡したこと。
その後、帝がどんな道を選ぶかを知っていたのに、止めなかったこと。
いや、止められなかった自分自身を、彼女は何度も責めた。
「永遠の命など、贈り物ではなかったのに……」
彼が薬を飲めばどうなるか、彼女には分かっていた。
地上にとどまったまま、すべての人間の死を見送る、終わらない孤独。
それを知っていながら、希望という名の毒を渡してしまった。
「わたしは……ひとりで帰るべきだったのに」
けれど、それでも渡してしまったのは、彼を失うことが怖かったからだ。
たとえ別の世界にいても、彼が生きていてくれれば、いつかまた――そんな淡い願いが、すべての始まりだった。
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月の世界は、完璧に整っていた。
感情も、欲望も、時間の流れさえも、すべてが制御されている。
だがその中で、かぐや姫だけが異質だった。
彼女の中には、帝と過ごした日々の記憶が生きていた。
手を取り合った夜。
ふたりで見上げた星空。
別れの瞬間、手のひらに残った温もり。
それらは消えず、むしろ年月が経つごとに色濃くなっていった。
彼女は夢を見るようになった。
月の住人にとって、「夢」は病の兆候だった。
だが、彼女は病に侵されたまま、その想いを抱いていた。
夢の中で、彼は変わらぬ姿で立っていた。
けれどその瞳には深い悲しみが宿っていた。
彼は、どれほどの時を、どれほどの孤独を、生きてきたのだろう。
かぐや姫は、涙をこぼした。
月では本来、涙は存在しない。感情の結晶として禁じられている。
だがその滴が頬を伝ったとき、彼女は思った。
「もう一度……今度こそ、あなたに謝りたい」
⸻
ある日、月の観測殿で異変が報告された。
地上に“不自然な生命波動”が存在していると。
それは、人の肉体でありながら、老化も崩壊もしていない奇妙な存在。
その名は記録されていなかったが、かぐや姫はすぐに悟った。
――帝。
彼は、まだ生きている。
それだけで胸が締めつけられた。嬉しさではなかった。
苦しみ、そして、再び彼を呪縛してしまったという罪の重さがあった。
彼女は決意する。
「地上へ戻らせてください」
長老たちは驚愕し、即座に拒絶した。
「再び地上に降りれば、お前は月の者としての資格を永遠に失うことになるぞ」と。
だが、かぐや姫は静かに答えた。
「わたしはもう、月の者ではありません。あの夜、あの人に不死を渡した時点で、私は……人間と同じです。
この罪を、わたしの手で終わらせなければならない」
その先に、懺悔と祈りがあることを信じて。