時の旅人
月を見上げるたび、帝は彼女を想った。
それはまるで、夜空に浮かぶ遠い灯火に向かって、歩き続ける旅人のような心だった。
不死の薬を飲んでから、まず最初に訪れたのは「変わらない肉体」への驚きだった。
老いも、疲れも、病も、身体に宿ることはなかった。
周囲の人々は、少しずつ「帝は神の子か」「神通力を得たのか」と騒ぎ立てたが、やがて恐れを抱き始める。
彼は、静かに退位した。
表向きは病を理由にした退位だったが、真実を知る者はいない。
それから、帝は姿を変え、名を変え、旅を始めた。
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都を離れた帝は、山中で一人暮らし始めた。
千年以上の時を生きる覚悟を決めた日から、世のすべてが「一瞬の夢」のように思えた。
人々の争い、移りゆく風景、流行り廃れ、政治の移ろい。
それらが帝の目には、まるで季節の風のように、軽く、儚く映る。
やがて世は戦国の時代へと入っていった。
武将たちが天下を夢見て剣を交わす中、帝はひっそりと、名も無き旅僧のように各地を巡った。
命を救った者もいれば、ただ通り過ぎた村もある。
だが、決して深く関わることはなかった。
誰かと親しくなっても、いつかその人は老いて死ぬ。
それを何度も経験した帝は、「誰かと生きること」そのものを諦めていた。
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時代は徳川の世となり、平和と安定が戻る。
江戸という都市が栄え、人々は浮かれたように芸を愛し、日々の暮らしに喜びを見出す。
帝はその街に溶け込むように暮らしていた。
小さな書店を営み、寺子屋の子どもたちに文字を教える日々。
自らの過去を隠し、ただ「旅の者」として生きる毎日。
時折、月の夜になると、彼は屋根の上に登って空を見上げた。
あの夜のことが、脳裏に蘇る。
かぐや姫の髪の香り。
その手に触れたときの温もり。
別れ際の、あの言葉。
「……まだ、届かぬか」
彼はつぶやく。
空は高く、月は遠く、そして彼の身体は、変わらず若いままだった。
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鉄道が走り、文明が花開き、世の中は大きく変化した。
人々は西洋の思想を受け入れ、新しい国を作ろうとしていた。
帝は時に「歴史学者」として生き、時に「記者」として真実を記録した。
彼は時代の目撃者であり続けた。
だが、その中で心はますます空白になっていった。
「なぜ、生きているのだろう」
ふと、そんな疑問がよぎる夜もあった。
誰も彼を覚えていない。彼がかつて“帝”だったことを知る者は、もはやこの世にいない。
ただ、ひとつ――
彼の中には、今も変わらず“あの夜の月”が灯っていた。
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帝は、今は東京の片隅に住んでいた。
外見は若い青年のままだが、心には千年以上の記憶が重なっている。
満月の夜、彼は決まってひとつの高台に立った。
ビルの谷間からわずかに顔を覗かせる月を見つめながら、そっと囁く。
「かぐや。私はまだ、ここにいる」
月は何も語らない。
だが、帝には確かに感じていた。
かすかな気配――
それは、彼女がどこかで、今も彼を想っている気配だった。
永遠の命は、祝福ではなく、祈りのための罰だった。
だが帝は、もう逃げようとは思わなかった。
むしろ、その命を使って、彼女を待ち続けることが自分の“務め”だと信じていた。
その夜。
空に昇る月が、ふといつもより大きく見えた。
何かが、始まろうとしていた。