別れと決断
夜の帳が静かに降りる頃、空には見事な満月が昇っていた。
都は今宵、言葉にできぬほどの静けさに包まれていた。人々は遠くの空を見上げ、そこに浮かぶ月の光にただ祈るように目を閉じる。
その夜、帝はかぐや姫の館を訪れていた。
薄桃の衣をまとい、静かに庭を見つめていた姫の姿は、どこか現世のものとは思えなかった。
「まもなく、迎えが来ます」
その声はかすかに震えていたが、どこか澄んでいた。
帝は言葉を失い、ただ彼女を見つめていた。千年に一度の美しさといわれた姫。だがその姿は、今や“地上に属さぬ者”のように淡く、儚くなっていた。
「姫……まだ、間に合う。戻ってはくれぬか」
「それは叶わぬこと。わたしは罪を犯したのです。地上に心を留めたという、大きな罪を」
帝はその場に膝をついた。すでに威厳も、誇りも捨てていた。
あるのは、ただ一人の女性を愛した人間の姿。
「罪であろうと、なんであろうと、私はそなたと共に在りたい。それだけだ」
かぐや姫は小さく首を振った。
そして、そっと袖の中から小さな容れ物を差し出した。銀色の光を放つ、精緻な玉手箱だった。
「これが、不死の薬です。月の者は、老いも死も持ちません。あなたがこれを飲めば、永遠に死なぬ身となります」
帝は驚きに目を見開いた。しかし次の瞬間には、目を伏せていた。
「なぜ、それを私に?」
「あなたが私を想ってくれたその想いに、答えたくて。ですが……それは、贈り物ではありません。呪いのようなものです」
その言葉に、帝は顔を上げた。
彼女の瞳には、悲しみが滲んでいた。永遠を生きるということが、どれほど孤独で、どれほど恐ろしいものか。彼女はそれを、月で生きる中で知っていた。
「けれど、それでも……もし、もしあなたが、私にもう一度会いたいと願うのなら。月は決して、永遠に沈黙を守る場所ではありません。いつか、また地上を見下ろす日があるでしょう。
その時、あなたがまだ……」
そこまで言うと、姫は言葉を失い、視線を逸らした。
帝の中で、何かが静かに決壊していく音がした。
月の輿が雲の間から姿を現した。白銀に輝く光が、かぐや姫の背に降り注ぐ。
「さようなら、帝さま。あなたに出会えたこと……それだけが、私の永遠の救いです」
風が吹いた。
かぐや姫の姿は、光と共に天へと昇っていった。
帝はただ、その場に立ち尽くし、名を呼ぶこともできなかった。
――数日後。
帝は高台に登っていた。かぐや姫を見送った夜と同じように、満月が空に浮かんでいる。
彼の手には、あの不死の薬の入った玉手箱があった。
「そなたがくれた、永遠。これは苦しみでしかないのかもしれぬ」
誰もいない夜風の中で、彼は独り言のように言った。
けれど、彼は箱を開ける。中には、小さな水晶のような瓶が納められていた。
月の光を受けて、ほのかに輝いている。
「……ならば、私はその苦しみを受けよう。永遠を生きることでしか、そなたに近づけぬのなら」
彼は迷いなく、その薬を口にした。
ひとしずく、舌に触れた瞬間、身体の内側から熱が走る。
血が滾り、心臓が打ち、全身に命が満ちる。
だがそれは、ただの「命」ではなかった。
永遠に終わらぬ、生の束縛だった。
薬を飲み干すと、帝は玉手箱をそっと閉じた。
静かに、ただ空を見上げる。
月は、変わらずそこにあった。
遠く、冷たく、手が届かぬ場所に。
「私は生きよう。千年でも、万年でも。
――そなたに、もう一度、会うその日まで」
そうして帝の永遠が始まった。