第1章「In the name of love」 1
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*現世・加須久市
夢なんて、見ずに済むのならそれに越したことはない。そう、巳波俊右は考える。
叶う保証もないそれを追って若い時間を無為に浪費するなんて愚かなことで、やりたくもない仕事をしながら地に足つけて懸命に日々を生きる人間の方が何倍も立派なのだと。
なのに世間は殊更に、夢は素晴らしい、夢を持って生きろと囃し立て、その熱狂にあてられた若者が一人また一人と極彩色の毒沼に沈んでいく。沼から這い出て大空を翔ける、ほんのひと握り、いや、ひとつまみほどの成功者の影を追いかけて。
「そんな挫折を幾度となく目の当たりにするうちに気付いたんだ。夢なんてモンはどこまでも空虚で、人の情熱を貪り食う怪物でしかないことに」
「優しいんだね。私は好きだよ。貴方みたいな不器用な人」
「ありがとうよ。だが生憎、短髪は好みじゃねえんだ」
「そう。残念」
みちのくの奥のさらに果て、寂れた漁港を臨む加須久市に位置するひなびたアーケード街のバー〝はすのはな〟で、マスターである井貫は白々しく溜息をつくと、首辺りで切り揃えた髪の毛を指でくるくると弄んだ。それをよそ目にウイスキーに口をつけた巳波を見やって、「だけどね」と井貫が言葉を繋ぐ。
「私はやっぱり、夢をもって生きるべきだと思う。例えばこんな場末のフォークバーで、今まさに思いの丈を弾き語ろうとしている若い男の子がいる」
井貫に合わせて巳波が視線を動かすと、ステージというのも憚られるような、小さな円形の舞台の上に置かれたピアノの椅子に華奢な青年が座るところだった。彼は客ではなく、井貫が日替わりで雇うインディーズのフォーク歌手だ。
「貴方は、彼を止めようと思う?」
「……いや。そんな野暮なことはしないさ」
「貴方の哲学に則るなら、貴方は彼を止めるべきじゃない? だけど貴方はそうしない。そうはできない。だから貴方は貴方のまま。いつまでも変われないまま、余った命をすり減らしていく」
淡々とした口調で説いた井貫を流し目で見やり、巳波は溜息とも笑いともとれる小さな息を漏らした。
「——始まる」
井貫はそう言うと、母親のような優しい目でピアノに向き合う青年を見つめた。巳波も井貫に倣って同じ方向を見る。青年がその細い指で演奏するのはオリジナル曲のようだった。
「……駄作だね」
「ああ。とても聞けたモンじゃないな」
ありふれた愛を歌った青く女々しいバラードは、 四十路を過ぎた巳波の胸に響くものでは到底なかった。それでも彼らは青年から目を離すことはなく、演奏している当の本人は、そんな敬意の込もった目線を気にも留めずに自身の叙情を歌い上げた。
思わず唸るような詩的な暗喩も、誰にも真似できないドラマチックな感性もない平々凡々な言葉の羅列を、全く技巧的でもないピアノの伴奏に載せて、これといった特徴のないメロディを色気のないキーで青年は歌い切った。彼がパフォーマンスをする四分間、はすのはなの店内には、青年の音楽にかける情熱とプライド、井貫の夢追い人に対する母性のこもった慈愛の心と、リアリストの公務員・巳波が自身の人生を回顧する愁いの念が充満していた。
巳波も井貫も、青年に拍手を送らなかった。しかし彼は一丁前にお辞儀をしてステージを後にした。その姿を見送って、巳波が「あんたにはあるのかい」と井貫の顔を真っ直ぐに見据えて問うた。
「何が?」
「夢だよ、夢」
「そりゃあ、あるけど」
「聞かせろよ、どんな夢なんだ、それは」
「そうだなあ。たくさんあるけど一番大きいのは――この加須久の町を照らすフォークの一番星の誕生を見届けることかな」
恋に焦がれる少女のような目で応える井貫に、「あんたらしい」と巳波は相槌を打った。
「しかし、あんなガキしか引っ張って来れないようじゃ、その夢は来世まで叶いそうにないな」
「それもいいじゃん。その場合は来世の私に期待大ってことで」
「来世、ね」
呟いて煙草に火を点けた巳波に、井貫が灰皿を差し出した。それを受け取りながら、巳波が「ロマンチストも結構だが」と煙を吐く。
「世の中のあらゆる事象にはカラクリがあるんだ。それは科学なんかの物差しじゃ決して測れない。かといって奇跡や宗教なんていう曖昧で実態のないものとも違う。矛盾してるようだが、世界ってのはそういう得体の知れない大きな力に動かされて回ってんのさ」
「そのくらい、知ってる。そういう矛盾をこそ、人は夢と呼ぶってこともね」
「——ふっ、あんたも大概、頑固だな」
巳波が煙草の火を灰皿で揉み消していると、入口の方から「巳波先生?」と若い女の声がした。
「いらっしゃい」
二人が同時に振り向いた先には、白の半袖ブラウスにスラリとしたパンツ姿の、背の高い女性が立っていた。
「やっぱり巳波先生だ。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
真っ黒なストレートボブに切れ長の瞳が印象的で、一見とっつきにくいようにも思える彼女——高田尊はその実とても人懐っこい性格をしている。
「巳波先生と同じお酒、お願いします」
「はあい。ちょっと待ってね」
持っていた小さいレザーのトートバッグを空いている椅子に置き、巳波の隣の席に腰かけながら、「軽音同好会の件、よかったですね」とにこやかに尊は言った。
「部員集め、大変だったんでしょう? 正式に部として認定してもらえたって聞いた時はわたしまで嬉しくなっちゃいました」
加須久市内のとある市立中学校で国語教師として勤める巳波は、遠い昔にバンドを組んで東京で活動していたという経歴を聞き付けた部員に頼み込まれて、軽音部の顧問をすることになった。
昨年度にとある男子生徒によって設立されたばかりの部はメンバーが彼一人しかおらず、部費が下りることもなかったが、巳波と彼の一か月間にわたる必死の勧誘活動の末、規定の人数である五名の部員を揃えたばかりだった。
「事務職員としてのあんたの協力もあったからこそのことだ。感謝してるよ」
「あんまり嬉しそうじゃないですね?」
言葉とは裏腹に仏頂面の巳波の顔を覗き込み、尊は問うた。
「あんな音楽と呼ぶのもおこがましいようなお遊びを税金でやれるってんだから、羨ましくって喜ぶ気にもなれねえや」
「素直じゃないですね」
尊はふ、と小さく笑って「誰より近くで彼らを応援してるのは、他ならぬ巳波先生じゃないですか」と言った。
「うるせえよ。小娘に何が分かる」
「照れてる」
容姿の印象のせいで自然と周囲から距離を置かれ、職場ではあまり同僚と関わっている様子のない彼女は、なぜか巳波にだけは積極的に絡んでいく。心を許した人間に見せる彼女の屈託のない笑顔は、その端正な顔立ちをより際立たせた。
巳波は内心でそれをもったいないと思いつつ、決して口には出さぬように「うるせえよ」とあくまで突っぱねる姿勢を貫いた。
「はい、バーボンのロックね。結構強いから気を付けて」
「どうも」
井貫から受け取ったグラスに大きな丸氷とともに注がれたウイスキーを舐めるように一口飲んでから、尊は「そういえば巳波先生、知ってますか?」と尋ねた。
「今年の市民祭のゲスト、漆エヒメが来るらしいですよ。この加須久市が故郷ってことで凱旋も兼ねて」
「悪いが全く聞いたことがないな。誰だ、そりゃあ」
「若い子に人気のシンガーソングライターですよ。音楽好きの巳波先生なら知ってると思ったんですけど」
言いながら尊は、スマートフォンの画面を巳波に向ける。そこに映っていたのは、尊とは真逆の可愛らしい顔立ちをした、尊と同い年くらいの女性がエレキギターを抱えて歌っている写真だった。明るめのオレンジブラウンのロングヘアが若々しく快活な印象を抱かせる。メイクを最小限に留めたあどけない顔の全面に湛えられた表情が、歌うことが楽しくて仕方がないと語っていた。
「先生、四葩のアーケード街とか行かないんですか? 地元出身のスターが生まれたって毎日毎日流れてるんですよ」
「生憎とチャラついたモンは嫌いでな。音楽も街も一緒で、礼袰にも滅多に行かないし、こいつの歌も聴きたいとは思わない」
百年前に金融都市として栄華を極めた加須久市の隣市である礼袰は、今や二百万人に迫る人口を擁する大都市だ。その中心部に位置する、東西に延びる巨大なアーケード商店街〝四葩小路〟は観光地としても人気が高く、連日多くの人で賑わっている。
「先入観だけで敬遠するのはもったいないですよ。エヒメちゃん、歌上手いんですよ」
言いながら尊は、今度は音楽配信アプリの画面を巳波に向けて漆エヒメのお勧めの楽曲について語り始めた。
流れるような早口で五曲ばかりの魅力を語り終えると、次に尊は音楽情報サイトのインタビュー記事を表示した画面を巳波に向けた。
「エヒメは考え方もすごく格好いいんです。ただの歌手じゃなく、漆エヒメという人間そのもので文字通りアーティストを体現しているような——」
滔々と語り続ける尊の声を半分聞き流し、巳波は尊のスマートフォンの画面を覗き込む。コンサートのステージや直近でリリースされた作品のジャケットと思しき画像を交えながら進んでいく問答の中に、彼にとって興味深い一節があった。
ソングライティングやライブパフォーマンスにおいて、これだけは誰にも負けない! という自身の強みは何だと思いますか?
【漆:——愛、かな。】
というと?
【漆:自分で言うのもナンやけど、あたし、周りの人間からそれはそれは愛されて育ってきたんよね。家族はあたしの欲しいもの何でも買ってくれて、やりたいこと何でも応援してくれて。友達にも「エヒメちゃんは可愛いね」ってちやほやされてばっかで。せやからあたしにとっては、それに応える形で皆に愛を振り撒くことって当然の義務なんよ。それを一番手っ取り早く達成できる、しかもめっちゃ楽しい手段として音楽やってるって感じ。レコーディングん時もライブん時も、歌ってる時は胸ん中に「みんな愛してんでー!」って気持ちが溢れてる(笑)。】
「見た目に反してずいぶんロックな魂を持ってそうな奴だな。嫌いじゃないよ、こういう奴」
もはや巳波のことなど意識の片隅にもいないほど悦に入って話し続ける尊を遮って彼が呟くと、尊は水を得た魚のように「でしょう?」といっそう目を輝かせた。
「こんなに可愛いのに、心に秘めた情熱は誰より燃え盛ってるってのが、媛乃の何より格好いいところなんです——」
口走ってすぐ「あ」と手で口を塞いだ尊に、巳波は訝しげな表情を見せたものの、特に言及はしなかった。
人間、隠しごとの一つや二つは抱えていても信頼関係を築くことはできる。話したくないことを無理に話させなければ維持できないような関係なら、そんなもの初めからない方がましだとさえ巳波は思っていた。
「同級生なんです。エヒメ——小鳥遊媛乃は。小学四年の時に転入してきて以来、今の職場でもある中学校を卒業するまでの六年間、わたしのかけがえのない親友だった」
そんな巳波の思いを知ってか知らずか、尊はしおらしく、それまでの半分ほどとも思えるペースで話し始めた。
「姉がいるんです。二つ年上の、わたしとは似ても似つかない、女性らしい包容力で誰からも愛される可愛い人で、わたしも彼女のことが大好きでした——」
そう言って彼女は、自身の幼少期の思い出を語り始めた。
姉のような女らしい女になりたいと願いながら、半ば言いがかりに近いような理由を作っては自分と異なる価値観の人間を排除したがる女子グループに馴染めず、幼馴染の男子とばかりつるんでいたという旨の身の上話は、一見何の脈絡もないように思えた。しかし巳波は、それを訝しむ気持ちを態度に出さないようにしながら、時折「ああ」とか「おう」とか短い相槌を挟みながらも静かに聞いた。話したくないことを無理に話させないのと同じくらい、話したいことがあるならば黙って聞いてやることは巳波にとって大切なポリシーだった。
尊は時折ウイスキーに口をつけながら、小雨のようにぽつぽつと言葉を発した。曰く、友達として関わっていたかった存在であるところの幼馴染から、ある日突然告白をされた。当然彼女は断ったが、それをきっかけに彼の友人と揉めた末に手を上げてしまい、彼女は教室から居場所を失った。
「——最初は抵抗したんですよ。嫌なものを嫌と言っただけで、わたしは何も間違ったことをしていないって。だけど先生からも親からも、貴女の言い分は間違ってるって言われて、わたしは自分で自分のことがわからなくなってしまって——。そんなわたしの目の前に、彼女は——小鳥遊媛乃は突如として現れて、悩みや憂いを含めたわたしの心の全てを跡形もなく奪っていったんです」
ようやく話が繋がったところで、巳波は「なるほど」と呟くように言葉を漏らした。
「服も話し方も立ち振る舞いも、媛乃の全てがあの教室の中で異質でした。わたしは初め、彼女みたいな人間がこの教室に馴染めるわけがないと思ってたんです。でも実際は違った」
漆エヒメ——小鳥遊媛乃は、持ち前の愛嬌で一躍クラスの中心人物、スクールカーストの最上位へと登り詰めた。それがどんなに困難なことかを想像するのは、自身も担任学級を持つ巳波には容易だった。いじめだけは発生しないように目を光らせているつもりだが、長い時間を過ごせば過ごすほどクラス内の人間関係は強固に固定されていく。それは学校に限らず、人が作り出すあらゆるコミュニティでの摂理だった。
「幼馴染との一件以来、女子からも男子からも腫れ物に触るように除け者にされてしまったわたしは、媛乃にも当然興味なんて湧かなかった。だけど当の媛乃は他のクラスメイトをみんな無視して真っ直ぐにわたしの元にやってきた。そんな彼女の第一声の強大さの前に、小学四年生のわたしはあまりに無力で——」
遠い過去を回想する尊の瞳に、巳波は微かな揺らぎを見た。
追憶は時に、自傷行為と似た性質をもつ。それがどれほど輝かしい思い出であったとしても。
「ずっと、あんたのこと可愛いなーと思って見ててん。あたし短い髪型似合わんから、それでそんな可愛いの羨ましいわ」
初めて受け取ってから十数年の間、幾度となく反芻し噛み締めたのがわかる流暢さで、尊は媛乃の言葉を再現した。大人が人を褒めるとき特有の、マウントを取りたがったり、相手の機嫌を伺うような薄気味悪い嫌らしさの全くないイノセントなニュアンスまで含めて、十歳当時の媛乃が尊に乗り移っているのだろうと思える口調だった。
「可愛さ——引いては女性らしさの象徴たる存在が姉しかいなかった当時のわたしに、媛乃は、その姉でさえ実現できないような、わたしだけの可愛さがあるんだと、たった一言で教えてくれたんです。それでいて自分の容姿に対する自信を隠そうとも、ましてや謙遜なんて絶対にしない。今思えば、この子とわたしは人としての格が違うと子供心に理解したあの瞬間、わたしは彼女にどうしようもなく恋をしたんだと思います」
徐々に回ってきた酔いも手伝ってか、尊は頬を紅潮させて高速で言葉を放った。そんな尊の様子を眺めるともなく眺めながら二本目の煙草に火を点け、巳波は「まるで魔法だな」とこぼした。
「不思議なもんだ、言葉ってのは。伝えようとすればするほど意味は歪んでいき、逆に何の気なしに放った一言が取り返しのつかないくらい人を傷付けたり、一生にわたってそいつの人生を支え続けたりする。そんな劇薬を絶えず他人とやり取りし続けなけりゃならないと気付いた日には、そんな営みを放棄したくならない方がおかしいわな」
「……だったら私は、少しでも多くの人を救う言葉を吐いていきたいな」
口を挟んだ井貫に、
「そりゃあ無理だろ。仮に百万人の心を救う言葉があったとして、そいつは裏で別の百万人を傷付けてるもんだ。俺たちにできるのは、そのどちらに目を向けるかの選択だけだ」
煙と共に言葉を深く吐き捨てるように、巳波は言った。そんな巳波を蕩けた瞳で睨めつけるようにしながら「わたしも」と尊が言う。
「わたしの言葉も、巳波先生を傷つけているんですか」
虚を突かれた様子でしばし逡巡したのち、巳波は「どうだろうな」と応えた。
「もしそうだとして、それでもお前が俺と関わり続けたいと思うなら——繰り返しになるが、お前にできるのは、自分の言葉が俺を傷つけているという事実から目を背けながら、俺と言葉のやりとりを続けることだけだ」
「そんなこと言わないでください。わたしはもう、逃げたくないんです。伝えるべき——伝えなければならない言葉と向き合うことから」
尊の瞳が今にも泣き出しそうなほど潤んでいるのがアルコールのせいではないと知りながら、巳波は「酔いすぎだ」と彼女をいなすと、五千円札をカウンターに放り、尊を連れ立っていそいそと店を後にした。