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アイネの身体に憑依した藍音は、アイネの記憶を受け継いだ。それと同時に、アイネの所作や口調も受け継いだ。
――“わたくし”って言ったのは就職活動以来だなぁー。
なんとか自室の前まで辿り着いた藍音は、そんな感想でここに流されるまでの回想を締め括った。だが部屋に入ることはせず足を止めた。
扉の前に、地味なドレス姿の若い女性がいたから。
後れ毛が一本も無くぴっちり結った明るい茶色の髪に、少しつり目の澄んだ空色の瞳。ピンと伸びた背筋が女性判事を思わせる、凛とした佇まいの綺麗な人だった。
屋敷の使用人が慌ただしく行き来する中、彼女は待てと命じられた犬のようにそこから動くことはしない。
――はぁーん、この子がアイネを毒殺したジリーね。
貴族令嬢は嫁ぐ際に生家から侍女を連れてくる場合があるが、ジリーは違う。アイネがレブロン家に嫁いですぐにライオットが彼女にと選んだ女性である。
本来なら平民でありながらそこそこ裕福な商家の娘であるジリーは働く必要はない。けれど大貴族と太いパイプを持ちたいジリーの父親は、行儀見習いという名目で彼女を侯爵家に送り込んだ。
アイネの記憶を探る限り、ジリーとの関係は悪くはなかった。藍音からすれば、ジリーはビジネスライクにアイネと接していたように見える。けれど、屋敷で孤立していたアイネにとったら心を許せる存在だったのだろう。
そんな存在に、アイネは毒殺された。
当の本人はそのことを軽い口調で語っていたけれど、間違いなく辛かっただろう。
同じ苦しみを味わって欲しいが、アイネを犯罪者にすることはできない。でもビンタの一つくらいお見舞いしなきゃ気がすまない。
「ジリー、扉を開けてくれる?」
「......ひぃっ......は、はいっ」
まるで死神にでも出会ったかのようにジリーの顔色は真っ青だ。ドアノブを持つ手もガタガタと震えている。卵形の形のよい額には、粒のような汗が浮かんでいる。
笑ってしまうほど怯えているが、実際、死人が墓場から甦ったのだ。逆の立場だったら怖くて怖くて仕方がない。しかも自分が手にかけた相手なら尚更に。
それでもジリーは逃げ出さずに藍音と共に入室した。その度胸は買ってやる。
「ふぅ、疲れた」
部屋の中心にあるソファにどっさりと腰を下ろした藍音は、肘おきに重心をかけて扉の前で控えているジリーに声を掛けた。
「喉が乾いたから、お茶を淹れてくださる?」
「......っ」
「それとね、今度は毒を入れるのではなくって、ミルクを入れてちょうだいね」
つとめて明るい口調で言った途端、ジリーから表情が消えた。
まるでそこだけの時間が止まってしまったかのように微動だにしないジリーを見ても藍音の表情は変わらない。いやそれどころか、更に笑みを深くして立ち上がると、身体の向きを扉へと変えた。
「ねえジリー。黙ったままだけれど、どうかしたの?」
腕を組んでニィッと笑ってみせれば、ジリーは声にならない悲鳴を上げた。
それを合図に藍音はゆらりゆらりと扉に向かって歩を進める。
「わたくしが口が利けることに驚いてる?それともこれは全部悪い夢だとでも思ってる?もしくは失敗したならまた殺せばいいやとでも思っているの?」
「……ひっ」
ジリーが上げた小さな悲鳴は一度聴いたら二度と忘れることができないだろう、救いを求める悲し気な声だった。
しかし藍音は無情にもジリーの前に立ち、その祈りを踏み潰す。
「目を逸らさないでジリー。貴女は間違いなく、昨日の夜わたくしに毒を盛った。これは揺るぎない事実よ」
「……っ!!」
鈍器で殴られたかのように顔を歪めたジリーは、次いで崩れるようにその場に膝をついた。
「お……お許しください。どうか……どうかっ、奥様、どうか……お願いいたします」
喘ぐように許しを乞うジリーは腰が抜けたわけじゃないようで、膝を突いたまま一度背筋を伸ばすと、今度は両手も地面に深々と頭を下げた。
――あ、この世界にも土下座ってあるんだ。
ここはネット小説の世界で、端的に説明するなら中世ヨーロッパもどき。そのはずなのに、急に馴染のある仕草が目に飛び込んできて、藍音は面食らった。
しかしそれは一瞬のこと。
「ねえ、ジリー。貴女は何を謝っているの?何を許して欲しいの?謝って何を守りたいの?……謝った程度で許されると思っているの?」
親し気な口調で問いを重ねた藍音だけれど、最後の声だけは低くなった。慈悲は与えられないと悟ったジリーは、糸が切れた操り人形のように、かくりと項垂れた、
「顔を上げなさい」
藍音は淡々と事務的に命じた。一拍置いて視線が絡み合う。
ひどく怯えたアイネの侍女は、どうにかして罪を逃れたいという欲求ではなく、犯してしまった罪の重さに耐え切れない表情をしていた。
「……奥様」
カサカサに乾いたジリーの声に刺激され、アイネの記憶が溢れ出てくる。
夏の名残を残す秋晴れの昼下がり、初めましてと挨拶をした時から、昨日まで。
親友のように何でも話し合えたわけじゃないし、女主人と使用人という垣根を越えた絆があったわけでもない。
それでもアイネが持つジリーの記憶はとても穏やかで温もりに満ちていた。殺されたという事実があっても、変わらずに。
藍音は、唐突に知りたいと思った。
ジリーがどうしてアイネに毒を盛ったのか。アイネが毒の入ったお茶を飲んだ時、どんな気持ちでいたのかを。