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「――何も知らないくせに、勝手なことを仰らないで」
低い声で吐き捨てたアイネは悲しんでいるのではなく、これ以上無いほど怒っていた。
アイネは音も無く立ち上がり、呆然とする藍音を見下ろす。
「貴女にわたくしの何がわかるの?」
射抜くような視線から逃れられない藍音は、必死に言葉を探して……でも、見つからなくて口を引き結ぶ。
「確かに貴女が仰る通り、わたくしは辛い思いをしました。夫からは存在を否定され、両親からも愛されず、愛を注がれるのはいつも自分じゃない誰か。最後は心の支えだった侍女に裏切られて、一人孤独に息絶えて!」
頭上から降ってくる言葉は、悲鳴に近い声だった。泣き叫んでいるのかとも思った。それほどに藍音の心に刺さった。
見上げたアイネは、はあはあと肩で息をしている。小説を読む限りアイネがいた世界では貴族はどこでも馬車で移動して、歩くことは恥とされている。
当然、働くこともしないから通勤ラッシュも知らないし、家事だって使用人の誰かがやってくれる。
そんな生活を送っているアイネが大声でまくし立てたのだ。息が上がるのも当然だ。
「……ふふっ、夫は……わたくしの死にいつ気付くのかしら」
息が整ってないのに空を見上げて呟くアイネは、笑っているようにも泣いているようにも見える。
「ねえ、貴女」
「あ、はい」
目が合って立ち上がろうとする藍音に、アイネは軽蔑に近い眼差しを送る。
「わたくしは、生き切ったなんて言えないし、笑えません。来世?……わたくしは、そんなものいらないわ」
立ち上がった藍音は、深く頭を下げる。
「……ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないの。……ほんとごめん」
無神経だった。こっちはアイネのことを小説を通して知っているけれど、アイネは自分とは完全なる初対面だった。
「後悔してるの、わたくし」
「うん」
「言いたいことも、やりたいことも沢山あったの……わたくし」
「うん」
「それを今でも胸に抱えていて、捨てきれないの」
「そっか」
感情が高ぶって震える声になっていくアイネに、顔を上げた藍音はゆっくりと頷く。この際だから全部鬱憤を吐き出しちゃえという気持ちで。
「わたくしは……貴女がうらやましい」
「そう?私はアイネちゃんの方が羨ましいけどな。旦那には無視されても、三食昼寝付きの生活だったんだし。今だって奇麗なアクセサリー着けてるじゃん。私なんて婚約指輪すら貰えなかったよ?」
嘘偽りない本音を言ったけれど、アイネは引き下がらない。
「どれもこれも、体裁を整える為に必要だっただけ。わたくしの意思で求めたものでも、気持ちを込めて贈られたものでもないですわ。ですから……やっぱりわたくし、貴女が羨ましい。だって貴女は他人に夫の不満が語れるほど共に過ごす時間があった。でも、わたくしはなにも無かった……離縁したいと申し出る時間すら与えられなかったわ」
再び茜色の瞳から涙が一筋流れるのを見て、藍音はふと思う。
不満だらけの夫との思い出を持っている自分と、夫との思い出が一つも無いアイネ。どっちが不幸なのかと。いや、どっちもどっちだ。
だからもうこんな虚しい会話はやめようと思った。しかし、次にアイネが放った言葉に藍音はカチンときた。
「わたくしは、貴女とは違う。貴女のように笑い飛ばせるような人生ではなかったわ」
「は?」
たった一言呟いて、藍音は固まった。さっきより強い風が吹いて、肩まで伸びた髪が頬に貼りつく。
それを耳に掛けることすらせず、今放たれた言葉をもう一度、ゆっくり心の中で咀嚼する。噛み砕いた後には、強い怒りだけが残った。
自分と重ねていた相手からまさかそんなことを言われるとは。一方的な思いだとわかっていても、どうにも藍音は聞き流すことができなかった。
「あのさぁ、そっちこそ勝手に決めないでくれる?私だって笑い飛ばせるような人生じゃなかったよ。やりたいことだって、言ってやりたいことだっていっぱいあった!でもさぁ死んじゃったんだよ?もう何にもできないんだよ?なら笑うしかないじゃん!」
もう一人の自分が年下相手に何をムキになっているのだと呆れている。でも感情を制御できない。
「辛い辛いって言ってもさ、アイネちゃんは旦那に食べさせて貰えてたんでしょ?カードの引き落とし明細見て白目をむきそうになったことも、風邪ひいて辛いけど無理して会社行ったことないでしょ?私からすれば、アイネちゃんの方が何倍もいい暮らしをしてたと思うけど?」
「……なっ……そんな」
噛みつかんばかりに詰め寄られたアイネは狼狽えて、唇を震わす。しかしその眼には、まだ力があった。
「なら、貴女がわたくしの代わりになればいいじゃない!!」
可憐な少女に似合わない低い声に、背筋がゾッとする。
「え?ちょ、何を言ってるの。そんなことできるわけ――」
「できるわ」
何を根拠にと目で訴えれば、アイネは薄く笑う。
「聖典に記してあったの。現世と黄泉の国の狭間にある小川には魂を呼び戻す力があると……万に一つの可能性ですが」
「ちょっと、まっ、待ってよ……―― っ!?」
嫌な予感がしてアイネから距離を取ろうとしたけれど遅かった。一歩後退した途端に、アイネに両肩を強く押される。その華奢な身体に似合わない馬鹿力だった。
「ひぃっ」
間抜けな悲鳴を上げた時にはもう藍音は、背中から小川に飛び込んでいた。
とはいえ所詮、チョロチョロと水が流れる川だ。飛び込んだところで、服がずぶ濡れになる程度――そう思っていたけれど、藍音の身体は完全に水に浸かってしまった。
それだけじゃない。小川は形を変え、大雨の後の一級河川のような濁流となり藍音を下流へと押し流していく。
「だ、だれか……たすけっ……うっ……や、やだぁ……っ」
必死に手足をばたつかせて岸へ向かおうとするが、流れが速くて身動きが取れない。それでも必死にもがく。
ついさっき死を受け入れたはずなのに、死んだことをちゃんと認識したはずなのに。それでも危機を前にして、生きようと躍起になる自分はどれほど愚かなのか。
そんなことを頭の隅で思いながら、藍音はとうとう濁流に呑み込まれ意識を手放した。
次に目が覚めたら、藍音はアイネの身体に憑依していた。万に一つの可能性を掴んだのだ。ご丁寧にアイネのこれまでの記憶をそっくりそのまま受け継いだ状態で。
――それから。
『なら、貴女がわたくしの代わりになればいいじゃない!!』
耳に残ったその言葉通り、藍音はアイネとして生きていくことを決めた。
いつか「ほらね、アイネだって笑い飛ばせる人生だったじゃん」と言ってやるために。