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藍音は何かの拍子に、ふと考えてしまう。
愛する女性が死んでしまって、その女性の身体に別の人間の魂が入ってしまったら……
その時に抱く感情は悲しみなのか、怒りなのか。それとも別の感情なのか。
ライオットと離縁して早一年。藍音は変わらず緑陰の館で生活をしている。
ただ、別居中は三食昼寝付きの生活を謳歌していたが、今は全く違う。
とにかく、忙しい。目が回るほど……という訳ではないのだが、気付いたら1年経ってた。そんな感じの時間の流れだった。
なぜそんなに忙しかったかというと、ライオットから譲られた財産管理にてんてこ舞いだったのだ。
領地や鉱山の管理なんて、経理畑で揉まれていた藍音だってすぐにできるわけじゃない。
毎日のように届く書類にウンウン頭を悩まし、沢山の専門書を読み、時にはジリーの父親を講師に迎えて、藍音は知らない知識をせっせと身に付けた。
その甲斐あって、そこらの新米当主よりはデキる女と胸を張って言えるようになった。努力が実った瞬間は、年を取ってもやっぱり嬉しいものだと藍音は実感した。
それとは別に、違う忙しさもあった。
アイネ・レブロンが離縁したと知るや否や、「是非、我が家の嫡男と再婚を!」と縁談が津波のように押し寄せてきたのだ。アイネは社交界で高嶺の花的な存在だったらしい。
とはいえ、藍音は自ら失恋を選んだ身。少なからず傷心していたのもあって、縁談は全て断った。この時だけはルードヴェイは渋ることなく藍音の意思を尊重してくれた。
しかし、これで終わりでは無かった。何度断っても、あの手この手を使って貴族連中は縁談を進めようとする。
破局を迎えた十代女性に、ニコニコと息子の釣書を押し付けてくる奴らは、一体どういう神経を持っているんだ。デリカシーが無さ過ぎると、藍音は本気で殺意を覚えた。
一度で良いから自分と代わってみろ。きっとこの状況に辟易するだろう。そんな悪態を吐きながら、藍音はジリーの手も借りて機械のように釣書を暖炉に投げ入れた。
薪代が少し浮いたのが、せめてもの救いだった。
……という苛立つこともあったが、喜ばしいこともあった。
別居中に頻繁に顔を出してくれていた義弟のフェリクスは、無事に騎士見習いになった。ただ暇さえあれば手紙を送ってくる彼に、藍音は恋人いないのかな?と、ちょっと心配だ。
父ルードヴェイは相変わらず上から目線の頑固ジジイだが、義母ルマリア曰く、すごく丸くなったらしい。
確かに時折訪ねてくるルードヴェイは、事前連絡を入れるようになったし、手土産も持参するようになった。
会話は弾むことはないけれど、領地運営などの質問をすると僅かに口元が緩む。ただ、その手の話を振ると彼にとって得意分野なのか、ものすごく話が長くなる。
ルマリア曰く、口下手な彼からすると快挙らしい。……なら、聞いてあげるかと、藍音はルードヴェイが好みそうな質問を用意していつも彼を迎えるようにしている。
義母ルマリアは、ルードヴェイの5倍は頻繁に緑陰の館にやって来る。社交界から完全に身を引いている藍音に不満を言うことも無く、いつも楽しい話題を運んでくれる。そんな彼女のことを藍音は一人の人間として好意を持っている。
振り返ってみると、変わるものと変わらないものの狭間で振り回された一年だった。
もちろん藍音自身にも変化はあった。
一番の変化は、現世と黄泉の国の狭間でアイネと再会した後、アイネの記憶がゆっくりと消えていったこと。
ただそれは10年前の出来事をすぐに思い出せないくらい自然なもの。この世界で生きていくために必要な知識はしっかり残っている。
アイネとの繋がりが細くなることに、藍音は寂しさを感じる。でも消えてしまう不安は無い。
だってアイネは友達なのだから。遠く離れた場所で頑張る友人の存在は、いつでも藍音の心の支えになっている。
また会えても、会えなくても。アイネは一生変わらず藍音にとって友達なのだ。
*
春独特の霞んだ空から柔らかい日差しが降り注ぐ。開け放たれた窓からそよ風が新緑と花の香りを運んでくれる。
住む世界が変わっても、やっぱり春は人の心を明るくさせるのだろうか。
藍音は鏡越しに映るジリーを見ながら、そんなことを思う。今ジリーは鏡台の前に座っている藍音の髪を結っている。今日は特別な来客があるのだ。
あるのだが、藍音はここで豪快なあくびをした。すぐさまジリーが鏡越しに睨む。
「藍音様、まさか昨日夜更かしされたのですか?」
「ん?違う、違うわよー。春だから眠いだけ」
「夜更かしを季節のせいにするのは、褒められたことではございませんよ」
「あはっ、そうじゃなくって“春眠暁を覚えず”って言葉があってね。意味は春はいつでも眠くなるーって感じなのよ」
「そんな都合の良い言葉が……」
「あるのですよねー。元の世界では」
この会話の通り、藍音はジリーに自分がアイネではないことを告白している。
信じてもらえるかどうかわからないけれど、傍に居てくれる彼女に隠すのは不誠実だと思って。
もちろんジリーが与えた毒でアイネが死んだことは伝えていない。自分がトラックに轢かれた拍子に乗り移ったと説明した。アイネが別の世界で元気にしていることも。
その時のジリーの顔は見ものだった。冷静沈着な彼女の目がまん丸になって、フラフラと部屋中を歩き回って、最後は藍音のお茶を飲み干し、そのまま床にへたり込んだ。
それからしばらくしてジリーは言った。
「よくわかりません。わかりませんが、わたくしがお仕えしているのは、今も昔もアイネ様にございます。たかだか中身が入れ替わったくらいで、この気持ちは変わることはございません」
たかだかのレベルが凄いなと思いつつ、ジリーの決意を受け取った藍音は芯の強い彼女を心から尊敬した。
内心この告白を機に、ジリーは緑陰の館を去ってしまうかもと考えていた藍音は、この言葉がとても嬉しかった。
とはいえ最初は、会話の節々にジリーの戸惑いを感じていた。でも今は気さくに会話ができるようになっている。
「お待たせしました。藍音様、いかがでしょう」
ふわぁぁと2回目のあくびを藍音がしたと同時に、ジリーの手が止まった。
鏡に映るのはハーフアップにした美しいバツイチ令嬢の姿だった。
「完っ璧よ!」
鏡越しにグッと親指を立てればジリーは不思議そうに首を傾げた。
この一年、ジリーは藍音の元の世界に興味を持ってくれたので色んな話をした。
けれど、ちょくちょく出てしまう元の世界のリアクションまでは説明が追いつかず、たまにこうして温度差を感じてしまったりもする。
ジリーに「グッ」の説明をした後、藍音は日傘を持って庭に出る。
来客の訪問時間はまだ先だが、何となく落ち着かないのだ。こういう時はお茶を飲むより身体を動かす方が藍音には合っている。
パンジー、クロッカス、チューリップ、スズラン。
庭の花の名前は幾つか覚えた。どれもこれも元の世界で見たことがある花だけれど、きちんとここの世界の名前で呼ぶべきだろう。
アイネは教養として高級花の名前を覚える程度だったので、夏になればまた知らない花に出会える。それが今から楽しみだ。
日傘の柄を肩に乗せてクルクル回しながら、藍音は花壇に咲いた花をゆっくりと鑑賞する。
緑陰の館はその名の通り、木々が多い。そのため小鳥のさえずりも至る所から聞こえて、藍音はあっちにフラフラこっちにフラフラと散歩を楽しんでいた。その時、
「お久しぶりです、アイネ嬢」
背後から名を呼ばれ、藍音はゆっくりと振り返る。
そこには襟の詰まった王族衣装を身に着けた黒髪王子ことカイロスがいた。




