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本日もライオット視点ですm(_ _)m
『お久しぶりですね、旦那様』
滑らかに紡がれたその言葉で、ライオットは黒髪の女性がかつての妻であることを知る。
しかし容姿も声音も違う。疑ってはいけないと思いつつも、ライオットはすぐには妻だと信じることができない。
「……その……君は、本当に私の妻のアイネなのか?」
恐る恐る尋ねた途端、自称妻である黒髪の女性は小馬鹿にするように鼻で笑った。
「あーらぁ、二年も妻でいた私を疑うのですか?まったく失礼な人ね。でも仕方ないか。私と貴方は一応夫婦だったけれど、夫婦らしいことは何一つしてないものね」
最後は肩を竦めて苦笑するこの女性から手酷い言葉を受けたライオットは「すまない」と言って項垂れる。
貴族令嬢だった妻とは思えない言葉遣いだが、言葉の端々に積み重なった不満と憤りが感じられ、それは全て自分に向けられていることもしっかりと伝わった。
己が持つ罪悪感をこれ以上無いほど刺激するこの女性は、間違いなくかつての妻だ。ライオットは、疑う気持ちを即刻捨てた。
「アイネ、また会えて良かった。君の話は、その……藍音嬢から聞いた。にわかには信じられない話だが、こうして君に会えたことを嬉しく思う」
「私は嬉しくないわ」
「なっ……!」
つれない妻の言葉にライオットは、言葉を失った。
恨まれていると自覚してはいたが、はっきりと拒絶されると堪らなく胸が苦しい。
「……すまなかった。君を妻に迎えた時、レブロン家の忌まわしい全てから守るつもりだった。いや、守れると思っていた。なのに……私は、君が苦しんでいることすら気付いて――」
「ちょっと待って」
ぴしゃりと片手を上げて、アイネはライオットの謝罪を止めた。
「私は君に謝ることすら許されないのか」
「違うわ。貴方が悪いと思っていることと、私が貴方に謝って欲しいって思っていることが違うような気がしたから止めただけ。謝罪は謝罪としてちゃんとしてもらうわよ」
腰に手を当て、アイネはずいっとライオットに顔を近付ける。気圧されたライオットは一歩後退する。
女性を怖がるなんて貴族当主の風上にも置けないと思うが、怖いものは怖いのだ。
特にアイネの今の姿は、家庭教師を連想させる。
良く言えば、涼し気な目元とシャープな顎のラインが魅力的な近寄りがたい美人。言葉を選ばなければ、気に入らない男性には心を抉る言葉を遠慮なく浴びせる攻撃的な女性。
自分は間違いなく彼女に気に入られていない。その自覚があるライオットは嵐を怖がる子犬のようにプルプル震える。
しかしアイネは、容赦なく人差し指をライオットの胸に突き付けると大きく息を吸い込んだ。
「あのね!私のことを死んだ妹の代わりと思ってた貴方に、ずっと腹を立ててたの!!」
衝撃より困惑の方が強かった。
ポカンとするライオットに、アイネは言葉を続ける。
「私だって一応、貴族の娘だったのよ。そこそこ覚悟して嫁いだわ。だから、嫁いだ先に愛人がいようが、貴方がこっそり血なまぐさいことをやっていようが、別にそんなことで泣いたりなんかしないわ」
「……しないのか?」
「しないわよ、まったく」
「なら……なぜ……」
なぜ二年も部屋に引きこもり、ずっと泣き暮らしていたのだろう。
ライオットはその言葉を呑み込んだ。しかし表情にはしっかり出ていたようで、アイネは馬鹿な子を見る目になった。
「あのねぇ、夫から無自覚に妹扱いされた私の気持ちわかる?悪意ゼロで、妹への親愛を向けられたら相当辛いわよ。しかも、その妹が悲しい亡くなり方をしていたら、面と向かって文句とか言える?言えないわよね」
憤慨しながら語るアイネに、ライオットは「すまない」とありきたりな言葉しか紡げない。
恥ずかしい話、今、アイネから言われるまで全く己の過ちに気付いていなかった。
「……君を傷付けてすまなかった」
「ほんと、そう。傷付いたわ、私」
唇を尖らせてアイネはライオットを上目遣いに睨む。けれどすぐに肩の力を抜いて微笑んだ。
「あのね夫婦ってさ、辛いことも楽しいことも共有しなきゃいけないんだよ。……シャロテ様のこと、わたくしは一緒に悲しんで辛い気持ちになりたかった。悔しかったね、酷いよねって言いたかった。イレリアーナ殿下のこともそう。二言目には愛人じゃない、愛人じゃない。貴方は、そればっかり。でもそうじゃなくって、わたくしは彼女をなぜ屋敷に置いておくのか教えて欲しかった。そして一緒に罪を償わせる方法を考えたかったわ……って、わたくし口調が元に戻ってしまったわ……ふふっ」
声を上げて笑うアイネをよそに、ライオットは固まっている。
知らないことばかりだった。こんなにも多くのことに気付かずにいたのか。見落としてしまったことや思い込んでいたことが多すぎて、心の中が恥ずかしさと不甲斐なさで破裂してしまいそうだ。
アイネがじっとこちらを見ている。漆黒の瞳が己の心を見透かしているようだ。
ライオットは言葉に詰まる。しばらくして絞り出したのはこの一言だった。
「ありがとう」
大切なことを教えてくれてありがとう。己の過ちに気付かせてくれてありがとう。こうしてまた会いに来てくれてありがとう。
謝罪ではなく、感謝の言葉は気持ちとは裏腹にとても小さな声だった。囁きのようなそれは、そよ風にさらわれ、すぐに消えて無くなった。しかし、アイネの心には残ってくれたようだ。
「良く言えました」
ニコッとアイネが笑う。
夏の日差しのような笑顔は眩しくて尊くて、嫌いな人には絶対に向けることはできないだろう。つまりライオットを許した証でもあった。
だがライオットは、アイネがこんなにもあっさり許してくれる理由が分からない。もっと口汚く罵られ、酷く責められることを覚悟していたのだ。
それなのに、どうして彼女は悪意の無い笑顔を自分に向けてくれるのか。
戸惑うライオットの袖を、アイネは掴んだ。
「ライオット様、今日限りでわたくしのことで悩んだり悔やんだりするのはお終いにしてくださいませ。わたくしは今、とっても幸せです。だから貴方も枷を外して生きてください。ただ、惚れた女性と結ばれるかどうかは、貴方の努力次第ですけどね」
藍音曰く、妻は自分達のことを違う世界から見守っていたらしい。なら、自分が誰に恋心を抱いているのかもわかっているのだろう。
だから最後の意地の悪い言葉に謝罪をするより、こんな体たらくの自分への励ましだと思うことにする。
「努力をするのは得意だ。任せてくれ」
「間違った方向に努力するのは、と前置きを付けた方がよろしいのでは?」
「……否定はできないな」
手厳しい言葉に居たたまれない気持ちになるライオットを見てアイネは豪快に噴き出し、そのまま声を上げて笑った。
それからアイネの笑い声が収まり、沈黙が落ちる。別れの時が近付いていることに二人は同時に気付いた。
「幸せになってくださいね。そうしてくれないとわたくしが心置きなく幸せになれませんから」
「わかった。約束しよう」
力強く頷いたライオットに、アイネは満足そうに目を細める。
――ああ、そうか。妻と入れ替わった藍音は、元々この姿をしていたのか。
自分でも呆れてしまう遅さで大事なことに気付いたライオットは、アイネの姿を目に焼き付けようとする。
しかし瞬きを一つしたと同時に意識は途絶え、深い深い眠りに落ちていった。
*
――それから一年後。
ライオットは緊張した面持ちで鏡台の前に立つと、この日の為に用意したタイを丁寧に結ぶ。
今日は特別な人と会う。願わくば、これが始まりの日になりますように。
そんな祈りにも似た願いを胸に櫛を手に取り、前髪を後ろに撫でつける。仕上げに上着を羽織り、手袋をする。
「さて、そろそろ行くか」
呟きながら鏡に映る自分と目が合えば、もう一人の自分は僅かに緊張の色を滲ませていた。
「……お前なぁ、しっかりしろ!」
自分に向けて叱咤激励を送る状況が可笑しくて、ライオットは小さく笑った。
屋敷を出たライオットは、すぐに馬車に乗り込むことはせず温室に足を向ける。温室の扉を開ける前に、ガラス越しに初老の庭師が気付いて深く腰を折るのが見えた。
「用意はできたか?」
むせかえるような花の香りの中、ライオットが庭師に問えばすぐに自信満々の笑みが返って来た。
「はい。どうぞお確かめください。今日の為に丹精込めて育てました」
そう言って庭師は両手で抱えないといけないほどの大きな花束をライオットに差し出す。
「……ああ、素晴らしい出来だ」
清廉な香りのするこれは、薄紅色のほんのり朱が入った愛する人に捧げる花。ライオットが想い慕う女性の髪と同じ色だった。
ライオットは大切に花束を抱えて馬車に乗る。
向かう先は緑陰の館。澄み渡る空にうららかな春の日差しに映える今日、ライオットは恋する女性の元に向かっている。交際を申し込む為に。




