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「とにかく……これを飲んで、今は少し休んだ方がいい。次に目が覚めた時には医者を呼んでおくから」
顔を見られるのが余程嫌なのかライオットは頑として目を合わせようとせず、ゴブレットを一旦サイドテーブルに置くと、そっと藍音を起き上がらせた。
「一人で飲めるか?」
「飲めることは飲めると思いますが、飲んだ後、聞いて欲しい話がございます」
「……それは次の機会にしてくれ」
「じゃあ、飲みません」
「こら」
子供を叱る気持ちになったライオットだが、すぐに表情を改める。
上半身を起こしている藍音は、顔色は悪いし声も弱々しい。しかし、その瞳は強い意志を秘めていた。
何を後回しにしたって、どうしても伝えたいことがある。そう心に直接語りかけるような眼差しに、ライオットは渋々ながら藍音の意思を尊重することにした。
「……それで、話とは?」
不味い不味い薬湯を飲んだ後、本題に導いてくれたライオットに、藍音は言葉を選びながらこれまで隠していた全ての真実を伝えた。
もうアイネが死んでしまっていること。藍音の中身は異世界のアラサー女子であること。
イレリアーナから受けた傷で死にかけた際に、もう一度アイネに会えたこと。彼女は自分がいた元の世界で頑張っていること。
それらを語っていく毎に、ライオットの表情が固まっていく。
「……にわかには信じがたいな」
「ええ、その気持ちはわかります。ですが、人の生き死にを面白可笑しく語れるほど私は悪人ではありません」
「わかっている。別に君の話を疑っているわけじゃない。ただ、すぐには」
「信じられないですわよね」
「ああ……すまない」
俯き肩を落とすライオットは、打ちのめされているようにも、精一杯頭の中を整理しようとしているようにも見える。
想像すらできない出来事を一気に伝えてしまったのだ。どんな気持ちであれ、現実を受け止めるのには時間が必要だろう。
藍音はライオットがこの後、発するであろう言葉を無言で待つ。
ただ心の中はわちゃわちゃと忙しい。自分でもミラクルとか奇跡とかそういう言葉で処理してしまった出来事を事細かに突っ込まれたら、どう説明して良いのかわからないから。
「……アイネのこと……すぐに伝えられずにごめんなさい」
待つと決めたけれど、沈黙に耐えられず藍音はライオットに深く頭を下げた。詫びるというより懺悔のつもりで。
「いいや、良いんだ。これでいい」
なのに返って来た言葉は思いの外、軽いものだった。口調も5分の遅刻を許すくらいの気さくなもの。
その温度差に藍音は、結局のところライオットにとってアイネはどんな存在だったのだろうと尋ねたくなる。
これまでの言動で、ライオットは間違いなくアイネのことを妻と認めてはいたけれど、そこに恋心はあったのだろうか。
そんな疑問がムクムクと膨れるが、藍音はそれをグッと心の奥に押し込んで口を開く。悲しい程に不器用なこの彼を自由にしてあげるために。
「旦……いえ、ライオット様」
「……っ!?」
急に他人行儀な口調になった藍音に、ライオットの身体が強張る。
「実はですね、私は貴方のこと……最初は大っ嫌いでした。偉そうで、こっちの話なんか聞きもしないで、自分の考えを押し付けて」
「すまなかった。もう二度とあんな真似はしない。これからは君を尊重する。神に誓って」
「あははっ、良いの。もう良いんです。それは過去のことだし、貴方がそんな人じゃないというのはもうわかってますから。ただそれをわかっているのは、貴方が妻にと望んだアイネじゃない。私――都築藍音なんです」
ニコッと、藍音は同意を求めるようにライオットに微笑みかける。
しかし、ライオットは辛そうな表情でいる。形の良い唇も小刻みに震えているし、エメラルドグリーンの瞳はあからさまに怯えている。
この話はこれで終わりじゃなく、まだ続きがあることをわかっているのだろう。夜会の時よりも「嫌だ、頼むから言ってくれるな」と、その目が強く訴えている。
けれども、藍音はそれを無視して言葉を続けた。
「シャロテちゃんの件は片付きました。アイネはもうここには居ません。ですから私が貴方の妻でいる意味はありません。お別れしましょう」
優しく柔らかく、久しぶりに会った友人をお茶に誘うような口調で離縁を口にすれば、ライオットは片手で顔を覆った。そして――
「……嫌だ」
絞り出した彼の言葉に嬉しいと思ってしまう自分が泣きたくなるほど滑稽だ。首を横に振ってくれたライオットに愛しさがこみ上げる。縋りつきたい。自分も本当は嫌だと言いたい。
でも、ケジメはつけないと。
「夜会の時は、復縁を望まないって約束してくれたじゃないですか」
「今は状況が違うじゃないか」
「確かにそうですね。でも今は、前よりもっと離縁するべき状況です」
「……違う。今の君となら私は――」
「駄目です」
聞きたくない言葉を強い口調で遮った藍音は、きっぱりと宣言した。
「旦那様、離縁してください。私は貴方の妻でいたくはありません」
終幕の言葉を最後に、部屋には沈黙が落ちる。
ライオットは項垂れたまま微動だにしない。そんな彼をじっと見つめてはいるが、藍音は急かすことはしない。
それからしばらくして――ライオットは掠れ声でこう言った。
「わかった。君の要求を呑もう」
敢えて離縁すると口に出さなかったのは、彼なりの配慮かもしれない。もしくは最後の強がりか。
どちらにしても大の大人が発するには恐ろしいほど小声だったけれど、念願の離縁ができたのだ。
嬉しい。……そう思わないといけないはずなのだけれど……全然、嬉しくなんかない。
けれども、藍音はアイネと約束したのだ。これからは誰かの代わりではなく、自分が主役になれる物語を生きるのだと。
なら、アイネの代わりの藍音は今日で卒業しなければならない。
自分の欠点を見事に指摘してくれたライオットを、王族と殴り合ってくれたライオットを、別居してからも心を砕いてくれたライオットを、窮地を救ってくれたライオットを、藍音はゆっくりと好きになっていた。
持て余してしまうこの気持ちがどんどん心に貯まっていって、いつか小さなきっかけで零れてしまうのではないかと恐れていた。
そうなった時、ライオットが仮に気持ちに応えてくれたとしても、藍音はずっと後ろめたさを感じてしまうだろう。
だからやっぱり、今この瞬間にライオットとお別れするのが一番良い。それが最善の方法だ。
「月並みだけれど、元気でいてくださいね」
「……ああ、君もな」
できるだけ不自然にならないように微笑めば、ライオットもぎこちなく笑みを浮かべてくれた。
離縁手続きの短いやり取りを終えて、ライオットは藍音の部屋を出た。
見送る代わりにふらつく足で窓辺に立てば、窓ガラスには水滴がついていて今日が雨の日だったことを知る。
雨に打たれながら馬車に乗り込むライオットは、哀愁というスパイスが加わって男前に磨きがかかったように見えた。
「……頼むから変な女に引っ掛からないでね」
失恋した心の穴を埋めるために適当な女と付き合って痛い目を見た、かつての同僚を思い出し、藍音は心底心配する。
でも今をときめく侯爵様は小国を余裕に買える財力があることを思い出す。なら、心配いらないか。
そう結論付けた藍音はベッドに横たわり、もう一度眠りに落ちた。
浅い眠りの中、たくさんの夢を見た。しかしアイネには会うことはできなかった。
翌朝、ジリーの調査でライオットを殴った相手がアイネの父ルードヴェイと弟フェリクスだということが判明した。
ジリーから報告を受けた藍音は親子愛に感動を覚えるより、「クルークリン国の男達は、ほんと殴るのが好きなことで」と大いに呆れた。ジリーが同意するように肩を抱いてくれたのが、嬉しかった。
そんなこんなで、約半年間。毛嫌いしたり、半裸を見られたり、誤解を生んだり解いたりした相手が、紙切れ一つで他人となった。




