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アイネと現世と黄泉の国の狭間で出会って喧嘩して川に突き落されなければ、今頃、自分はずっと夫を呪っていただろう。
自分が死んだ後、夫が笑い楽しく過ごしていたら、それを呪い妬み、もしかしたら成仏することすら拒んで地縛霊になっていたかもしれない。
そうして夏の心霊番組で無駄に視聴率を稼いで、最後は怪しげな霊媒師に祓われて、なぁーんにも残らない塵になっていたかもしれない。
少々妄想が行き過ぎているかもしれないが、あながち間違いじゃない。自分ならやりかねない。
そんな風に鬱々と考える藍音に、アイネは己の胸にずっと隠していた気持ちをそっと囁く。
「それとライオット様のことで後ろめたさを覚えないで。わたくしはあの晩、毒を飲んでも飲まなくても、一生あの人に抱かれるつもりはなかったですから」
「……どうして?」
「どうしてもですわ」
つまりは内緒ということだ。
そこに一抹の寂しさを覚えるけれど、秘密にしたい気持ちなんて誰だってある。ちょっとだけでも秘密の気持ちを教えてくれたことに感謝をすべきだ。
「藍音様、向こうに戻ったら、わたくしの代わりとしてではなく一人の女性として彼のことを見てくださいませ。この先は貴女だけの物語なのです。藍音様が主役になれる恋を是非見つけてくださいね」
「っ……!!」
ああ、そっか。アイネは藍音と入れ替わって、自分が小説の中の世界の登場人物だと知ってしまったのだ。
なのに、認めがたい現実をあっさり受け入れて生きているアイネは、もしかして自分より逞しい女性なのかもしれない。
「アイネもさ、良い人見つけるんだよ」
「もちろんですわ」
自然に涙が零れる。
寂しさを滲ませたアイネの口調から、アイネとこうして会話ができるのはこれっきりだということを知る。二度目の死は、別々に迎えるのだろう。
その時は、どうかずっとずっと先でありますように。
「長生きしなよ。信号が青でも左右の確認はちゃんとしなよ」
「貴女こそ、口に入れるものと刃物にはお気を付けください」
涙は頬を滑り落ち、握り合う手の甲にポタポタと落ちる。
「アイネ……忘れないからね。だから忘れないでいてね」
「もちろんですわ。ねぇ、藍音様。一つわたくしのワガママを聞いてください」
「……なあに?」
ずっと鼻水をすすって藍音が背筋を伸ばすと、アイネはゆっくりと握り合っていた手を振りほどいた。
「一度目はわたくしが貴女を見送ったから、今度は貴女がわたくしを見送ってくださいませ」
「う、うん!いいよ、いいよ!!」
なんて可愛らしいワガママを言ってくれるのだろう。
「もう、アイネ最高!あのね言っとくけど、会えなくっても私たち友達だからね!ずっとずっと友達だから!私、いつもアイネが元気でいること祈ってるから。悲しい気持ちになってないようにって。楽しく笑ってくれてますようにって!」
柄にも無いことを言って、顔が赤くなるのを止められない。でも、いいじゃないか。だって本当のことなんだから。
そんな気持ちで叫べば、アイネは笑った。満開の桜のように。
「ありがとうございます。あのね……あのね……」
そこまで言ってアイネはこちらに近付き、耳元にそっと嬉しい言葉を囁く。
「じゃ、行きますわね」
「うん!」
自分と同じように赤面したアイネは、藍音に背を向け駆けだす。
駆け出してすぐ桜色の髪は黒髪に変わり、ドレスは通勤服に変わる。それを隠すように金の粒子がアイネを包む。
そしてサラサラと砂が風に流されるように、アイネは消えていった。
閉幕を告げるように、強い風が吹く。靡いた藍音の髪は、いつの間にか桜色に変わっていた。
*
アイネを見送ってすぐ藍音は強い何かに引っ張られる感覚を覚え、意識が途絶えた。
次に目を覚ました場所は、緑陰の館の自分の部屋のベッドの上だった。
夢の余韻を味わうように、ぼんやりとここはどこだろうと考える。見覚えがあるような、ないような……と、記憶を探っていたのは一瞬で、横から聞きなれた声が耳朶を差す。
「――目が覚めたのか」
横たわったまま緩慢な動きで視線をそこに動かせば、ベッドのすぐ傍にある椅子に座ったまま心配そうにこちらを見つめるライオットがいた。
「……ええ」
見てわからないのかと、ちょっと前の藍音なら挨拶代わりの嫌味を吐いていただろう。
たとえ、ライオットのエメラルドグリーンの瞳の下にくっきりと隈があろうとも、疲れ切ったその様子で寝る間を惜しんで傍に居てくれたことがわかっていても。
でも今の藍音は、シーツの端っこを掴んでもじもじとしている。見る人が見たら、はにかんでいると勘違いしそうな態度でいる。
「良かった。毒の応急処置は間に合ったけれど、君は5日も目を覚まさなかった。……生きた心地がしなかった。本当に良かった」
慈しむように乱れた藍音の前髪を整えるライオットは、見事に勘違いしていた。藍音もそれに気付いている。
……気付いているが、敢えて訂正しないのは、勘違いしたままでいてほしいという乙女心ではなく、それよりも前に訊きたいことがあるからだ。
「あの、どうしたのですか?それ」
滑らかな口調で語るライオットの頬には痣があるのだ。おそらく誰かに力任せに殴られたのであろう。見るからに痛々しい。
絶対に聞こえているはずなのに、ライオットは何も言わない。そうなれば、どうしても悪い方向に考えてしまう。
「また誰かと拳で語り合ったのですか?いい加減、もう良い年した大人なんですから、そういうことはご卒業なさってください」
世話の焼ける息子を見る目になった藍音に、ライオットはすかさず「違う」と反論する。
「今回は、殴り合ったんじゃない。俺が一方的に殴られたんだ」
「……それは胸を張って言うことでしょうか?」
「確かにそうだな」
おそらく喧嘩をしたわけじゃないと主張したかったのだろう。だが、どちらにせよ殴られるような真似をすることに問題がある。
「で、一体どこのどなたに殴られたのですか?」
ため息交じりに尋ねれば、ライオットはサイドテーブルに置いてあるゴブレットを手に取り、無理矢理話題を変えてきた。
「目が覚めたら医師がこれを飲むようにと。少し起きれるか?」
「ええ、起きれますわ。貴方が誰に殴られたか教えてくだされば」
「君が気にすることじゃない」
頑なに言わないとなると……まさか黒髪王子が犯人か。
毒を塗った短剣で自分を刺したのは、元王女だ。なら、王室とひと悶着あったのかもしれない。
「前回の夜会の一件は、有難くも陛下が目をつぶってくださったので大事にはなりませんでしたが、二度目となると流石に黙っているわけにはいかないのでしょう?……そりゃあカイロス殿下には思うところがおありだと思いますが、家門のことを考えて――」
「違う」
つい年上のお節介でライオットを窘めていたら、急に尖った口調で遮られてしまった。
「違う……殿下に殴られたわけじゃない」
「あらあら。いつから見境なく喧嘩をするようなお子様になったのですか?」
「一方的に殴られたと言ったはずだ。私が……殴られて当然のことをしたんだ」
含みのある言い方に「だから何で!」と詰め寄りたいけれど、ライオットは全身で「聞いてくれるな」と訴えてくる。よほど彼の名誉を傷つける出来事だったのだろう。
「わかりましたわ……貴方がそこまで仰るなら、傷の件は触れないでおきますわ」
「そうしてくれると助かる」
ほっとした顔をするライオットを見つめながら、藍音は後でこっそりジリーに聞いてみようと心に誓った。




