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完全にキャパオーバーになった藍音に、アイネはかいつまんでこれまでのことを説明した。
藍音が濁流に呑まれたあと、なぜかアイネは意識を失い目が覚めたら藍音の世界の病院のベッドにいた。
藍音の肉体はトラックに撥ねられ即死したはずだったが、頭は強く打っていたものの擦り傷と打ち身のみで外傷はほとんど無かった。
約一ヶ月間意識が無い状態で、パッと目が覚め後遺症も無いことに医者は納得できないようで、無駄に検査を受けさせられたが、やっぱり異常が見つからなかった。それでも不審がる医者に、アイネは寝ている間に解剖されないかちょっと不安だった。
退院後、自宅療養を経てアイネは藍音として職場に復帰した。心配していた業務だが、藍音がこれまで培ってきた経理の知識のお陰で特に問題なく仕事ができているし、一般常識も受け継いでいるので、日常生活にも困っていない。
とどのつまり、アイネは藍音同様にそれなりに異世界に馴染んでいた。
「おそらく藍音様とわたくしの肉体が入れ替わることができたのは、ハンカチ代わりにいただけた貴女のブラウスのリボンのお陰ですわ。あの時、貴女が貴女の欠片をわたくしに残してくれたから、わたくしにも万に一つの奇跡が与えられたのだと思ってます。……ありがとう、藍音様。わたくしに新しい世界を与えてくれて。とても幸せですわ」
大切に、愛おしむようにブラウスのリボンをそっと撫でるアイネの横で、藍音は自分の胸元を見る。そこにはさっきはあったはずのリボンが消えていた。アイネに取られたわけじゃないのに。
多分、意識の問題なのだろう。有ると思い込めばあって、無いと自覚すれば無くなる。そもそもここは現世と黄泉の国の狭間。頭に描くイメージ一つで自由自在に変わることを藍音は今更ながら理解した。
なら一度目の死の後、クローゼットにしまいこんでいたワンピースを着たいと強く念じなくて良かった。あの服にはリボンは付いてなかったから。
「不思議だね……とっても」
「ええ。わたくしもそう思いますわ」
小川のせせらぎに耳を傾けながら藍音が呟けば、アイネもしみじみと呟く。
本当に運命とは不思議なものだ。深く考えずに行動した小さな出来事が、後になってこんなミラクルを生み出すなんて。
だからこそ、どれだけ科学が発達しても、人は神という存在を信じ続けるのだろう。
という哲学的なことはさておき、今は大衆ネタで確認したいことがある。
「ところでアイネ。とっても訊きにくいことがあるんだけど、訊いてもいい?」
「もちろんですわ」
すぐに続きを促してくれるアイネとは対照的に、藍音は地面の球体をプニプニ触りながら口を開く。
「今の話でさ、智哉のことが出てこなかったんだけど……あの人とはいまどうしてる?」
「ふふっ。智哉さんって想像を絶する破天荒な方ですね。わたくしが目を覚ました途端“いつ退院できるんだ?入院費払えないぞ”ですって。それが即死しそうになった妻にかける言葉かしら?しかも病室に顔を出したのは、病院から連絡を入れていただいてから3日経ってから。その理由を率直にお伺いしたら、色々……と。しつこく尋ねてみましたら、色々お友達と仲良くするのに忙しかったみたいですわ」
遠い目をして語るアイネに、藍音は気づけば土下座していた。
「ごめんね!ほんと嫌な想いをさせてごめんね!!」
「あら、藍音様が謝る必要はどこにあるのですか?」
不可解なものを見る目付きになったアイネに、藍音は勇気を出してその後のことを訪ねてみる。
すぐさまアイネは冷笑を浮かべ「結婚前に有していた財産は財産分与の対象にならなくて良かった」と言った。つまりそういうことだ。
「アイネは、やればできる子だったんだ。すごいよ。私、踏ん切りつかなくてズルズル状態だったもん」
「ふふっ、褒め言葉として受け止めさせていただきますわ。ところで藍音様、率直に伺いますが今のお話を聞いて、わたくしのこと恨んではおりませんか?貴女にはわたくしの代わりをすれば良いなどと言っておきながら、わたくしは好き勝手なことをしてましたから」
「は?どうして、私がアイネのこと恨まなきゃいけないの?」
噛みつくような口調になってしまったのは仕方がない。
だって自分は、一言だって否定的なことを言っていない。むしろアイネの勇気ある決断を手放しで褒め称えたいし、その行動力にも尊敬の念を抱いている。
逆に恨まれるようなことをしたのは自分の方だ。
「私こそ、ごめん。私が死んじゃったからアイネも引っ張られて死んじゃったんだよね。いっぱい頑張ってくれたのに、台無しにしてごめん」
沈んだ口調で頭を下げれば、なぜか「あはっ」と可愛いらしい笑い声が降って来た。思わず顔を上げる。
「いやだ藍音様ったら。貴女は死んでなんかおりませんわ」
「……嘘」
「嘘じゃありませんよ。ここは現世と黄泉の国の狭間。今、貴女は生きるか死ぬかの瀬戸際にいるだけですわ」
「だけって言っても、結構ヤバくない?」
「悲観的に捉えるならそうかもしれませんが、貴女は戻ることができますわ。こうしてお会いできたのは、わたくしが貴女とお話ししたいという想いから再び出会えただけ。わたくしはとても元気です。ただ貴女にもう一度会うには夢の中しかなくって、睡眠を取り過ぎてしまいましたけれど。おかげで顔がむくんでしまいましたわ」
「うわぁー……それはごめん。リンパマッサージ頑張って。痛いけど」
「ええ。何度やってもアレは慣れないですわね」
顔を顰めるアイネは間違いなくリンパマッサージの痛みを思い出しているのだろう。確かにあれは痛い。しかしやらなくては、外に一歩も出ることはできない。
「なんかアイネは、もうすっかり向こうの世界に馴染んでるね」
「そう言って貰えると嬉しいですわ。でも実のところ、驚きの連続なんですの」
「そっか。でも楽しい?あっちの世界に住めて良かった?」
「ええ、とても」
人は幸せだとこんな笑顔になるんだという表情を浮かべてくれたアイネの手を、藍音はぎゅっと握る。
「私、アイネが幸せになってくれて……楽しいって思ってくれて嬉しい。今度こそ生き切ったって言える人生になってほしい」
「ありがとうございます。わたくしも、同じことを願っておりますわ」
握った手に反対の手を重ねてくれたアイネは、そのままコツンと額を軽くぶつける。
「藍音様、お願いです。これからは、貴女が思うがまま、貴女の為の人生を歩んでくださいませ」
「っ……!」
アイネの願いに、すぐに頷くことはできなかった。
しかし胸の中に溢れるこの気持ちは、生きる意味を見失った不安でも、突き放されたと憤る気持ちでも、自分勝手なことを言わないでと無責任さに怒りを覚えているわけでもない。
藍音はアイネに言葉にできないほど感謝しているのだ。




