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ライオットとイレリアーナ。この二人のことを話さないのは、自分を殺した相手のことをどう伝えれば良いのかわからないし、冷遇していた男が実はそうじゃなかったと語るのは何だか彼を擁護しているみたいで気が引けるから。
……ちょっと綺麗事を言った。
イレリアーナに関しては嘘偽りないのだが、ライオットに対しては出来心ではあったが抱かれたいなどと思った手前、後ろめたさを感じている。だからアイネに伝えることができていない。
――人のものを欲しがるなんて最低だよね。
改めてあの夜、勢いでベッドインしなくて良かったと藍音はあの時の自分を誉めてあげたくなる。もし仮にライオットと一夜を共にしていたら、今頃アイネに顔向けできなかった。
などと藍音が一人悶々と考えていれば、隣に座っているアイネがクスクスと笑い声を上げる。
「そんな真剣に悩まないでくださいな。実のところ……イレリアーナ殿下のことはずっと恨んでおりました。でも、今となってはどうでも良いと思えるのです」
「え?いいの!?」
自分だったら間違いなく来世でも恨み続けるだろう。なのに、もうどうでも良いだなんて。この若奥様はどこまでもお人好しだ。
と、藍音は唖然としたけれど、アイネがそう思う理由はちゃんとあった。
「だってあのお方は、わたくしより何倍も可哀想なお方なのですもの。自分より不幸な方を恨むなんて、わたくしにはできませんわ」
「……そう?」
性格の悪さだけを置いておけば、イレリアーナは血筋も容姿も申し分ない女性だ。なのにアイネは彼女のことを可哀想だと言う。庶民の藍音はわかるようでわからない。
そんな中途半端な気持ちはしっかり顔に出ていたようで、アイネは再び口を開く。
「イレリアーナ殿下は、どれだけ愛されても満たされない人なのです。だからずっと愛に飢えておられます。そして人を試すことで、相手の気持ちを計ろうとしてしまうのです。そのくせ自分からは愛を与えることができない。これでは誰も彼女に好意を向けることはできませんわ。などと偉そうに言わせていただきましたが、わたくしも上手に愛することができなかったから同じなのかもしれませんね……ふふっ」
再び笑いで締めたアイネだが、笑うところじゃないだろうと藍音は苛立ちを覚える。
「アイネはさ、イレリアーナなんかと一緒じゃないよ。ちゃんと好意を受け取れる子じゃん。嬉しいって素直に思えるじゃん。全然違うよ!」
「そうかしら?でもわたくしは、自分の身勝手で随分と家族を傷付けてしまいましたわ」
「いーや、違う!それは、あのおっさんが悪い」
「おっさんって……お父様のこと?」
「それ以外いる?」
「いないですわね」
質問を質問で返せば、アイネは神妙な顔になる。
あ、ちょっと悪く言い過ぎたかな? と藍音は慌てて取り繕うとする。しかしその前にアイネが口を開いた。
「ま、イレリアーナ殿下のこともお父様のことも、今となっては同じくらいどうでも良いですわ」
「……良いんだ」
「ええ。殿下のことは放っておいてもそれなりの処罰が下されそうですし、お父様のことはルマリア様と仲違いしていないのならそれで良いですの」
「そっか。それで良いんだ」
「ええ。お父様とイレリアーナ殿下のことはもう思い残すことはございません。使用人達のこともです」
ふーん……と、藍音は膝を抱えて頷いてみる。
不完全燃焼なのは自分だけかとちょっと寂しい気持ちもあるけれど、アイネが良いというならこれ以上、話を掘り下げるのはやめようと折り合いをつける。
「ところで藍音様、ライオット様のことはどうして何も仰らないの?」
「え゛……えっと……うん、あー」
急に触れて欲しくない話題をぶっこまれ、藍音はものの見事に狼狽えた。
なんとなくこのままスルーしてもらえたら嬉しいなと思っていたけれど、やっぱり夫のことは気になるらしい。
「実は……さ」
「ええ」
「ライオットさん、さ」
「ええ」
「そんなに悪い人じゃなかったんだ」
チラリと顔色を窺いながら伝えれば、アイネはふわりと笑って「それで」と続きを促す。
「んー、えっと……イレリアーナを家に入れてたのは愛人じゃなくって、妹の復讐のためでさ、レブロンさん家は王様に良いように使われてて色々苦労してるみたいでさ、アイネとその……アレよアレ。しょ……初夜とかそういうのしなかったのは、アイネを汚したくなかっただけなんだって」
「そう」
真っ赤になって説明する藍音とは対照的に、アイネはびっくりするほど表情が動かない。奇麗な微笑みを浮かべたまま。
そしてその表情のままとんでもないことを口にした。
「それで、藍音様はあの夜ライオット様に抱かれたの?」
「だ、だ、抱かれてないよ!!ヤッてないから!マジでヤッてないっ――……え?うん??」
咄嗟に叫んだ後、藍音は違和感に気付いた。ギチギチと音がしそうなほどきごちなくアイネと目を合わせる。
「……え、ア、ア、アイネ……あのさ、今さ、あの夜とか、抱くとかさ……言ったよね?」
「ええ」
「あのさ、まさか見てた……の?いやいや、見てないよね?うん、そうだよね。まさかっ、あはっあははっ、私ったら何を言ってるんだろ」
頭をかきながら笑い飛ばした藍音だが、次に放つアイネの言葉が何なのか予測できている。予測できているからこそ馬鹿っぽいことをしてしまっている。
「見てましたわ」
やっぱそっか。と声に出さなかったのは、色んな感情が邪魔したから。
顔を覆ってのたうち回る藍音は、もう恥ずかしいやら申し訳ないやらで死んでしまいたい。既に死んでいるけれど。
「……ごめんね、アイネ。謝って許されることじゃないけど、ほんとごめん」
「あら?何を謝っていらっしゃるの?藍音様」
「だってアイネの旦那に私……」
「ふふっ、わたくしは気にしてませんわ。それよりあそこで止めてしまったことが歯がゆくって、歯がゆくって。あの夜ほど初夜に相応しい夜はなかったはずなのに」
「っ……!!」
桜の妖精から想像もできない破廉恥な発言を受けた藍音は思考を放棄した。そんな藍音にアイネは更に驚くことを伝えた。
「あっ、藍音様。わたくし人の営みを見るようなふしだらな女じゃないですからその点は勘違いなさらないでくださいませ。それにわたくしも慣れない世界で忙しかったので、全部を見ていたわけじゃないですの。あの日は丁度、週末で朝寝坊ができたからゆっくり見ることができただけで――」
「ちょっと待った!!」
アイネの言葉を遮って、藍音はガバリと身を起こす。今、聞き捨てならない発言があった。絶対にあった。
「アイネ、今さ、慣れない世界で忙しいって言ったけど、ずっとここに居たんじゃないの?」
アイネの両肩を掴んで詰め寄れば、桜の妖精の桃色の唇は想像を超える言葉を紡いだ。
「いいえ、ここにはおりませんでした。貴女がわたくしの身体の中にいる間中、わたくしはずっと都築藍音として貴女の世界で過ごしておりました――これのおかげで」
ニコニコと笑いながらアイネが差し出したのは、初めて会った時に渡したハンカチ代わりのブラウスのリボンだった。




