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「……死んだか」
一度目の死と同じ台詞を吐いた藍音は、今回もまた辺りを見渡した。
真珠色の空に、どこまでも続く淡い光を放つ一本道。両端は花畑に見えるが、実は手のひらに乗るくらいの小さな球体の集まりで、一つ一つが寝息のような速度でゆっくりと色彩を変えていく。
記憶と寸分変わらないパステル画のような風景に今回は「わぁーお」と古風なリアクションを取ることはないし、心も麻痺していない。もう一人の自分、アイネ・レブロンのことだけが頭の中を占めている。
藍音はしっかりとした足取りで淡い光を放つ一本道――ではなく、脇道に逸れる。
ふとつま先を見れば、一度目の死と同じ靴を履いていた。髪に手をやれば、ついさっきまでと感触が違うし、長さも違うし、色も違う。服装も何もかも、まごうこと無き都築藍音に戻っている。
「ほんと、ただいまって感じだなぁ」
元の姿に戻ったことを実感した藍音は、しみじみと呟く。
今にしてみれば、藍音からアイネになった生活は、神様が与えてくれたちょっとしたサプライズイベントだったのだろう。
楽しかったと一括りにできるものじゃない。腹が立つこともあったし、辛い思いもしたし、歯噛みしたこともあった。けれど、あっという間の半年だった。
「……ま、なんだかんだいって充実してたってことか」
明日は来ないと絶望する決算の時期でも、処理を終えればビール片手に笑うことができる。そんな感じ。
心地よい風が吹いている。真珠色の空から降り注ぐ金の粒子が流れていく様は、まるで道天使が道案内してくれているようだ。
藍音は素直に風に身を任せて歩く。そうすれば見覚えのある場所に辿り着いた。
あの日と変わらず、チョロチョロと水が流れる小川の横に桜が咲いている。
でもそれは、そよ風になびく人の髪で、しかもその髪の持ち主はもう一人の自分だということはもうわかっている。
「アイネ!」
叫ぶと同時に藍音は全速力で駆けだす。少女はゆっくりと振り返った。黄昏色の瞳は、涙に濡れていなかった。
「アイネ!アイネ、アイネ!!」
藍音は手を伸ばして、もう一人の自分を抱きしめる。
華奢な二つの腕が自分の背に回されて、感極まった藍音は堰を切ったように語り出す。
「アイネ!聞いて!私、アイネの代わりにいっぱいやったよ!ヒューイの不正も見つけたし、ライオットにもアイネのお父さんにもガツンと言ってやった!ルマリアさんとフェリクス君とお茶して、仲良くなった!離縁するとこまでは居られなかったけど、もう泣き虫奥様じゃないからっ。あとねジリーは、アイネを殺す気なんかなかったんだよ。ジリーは知らなかったの。毒でも死ぬ毒じゃなくってね、お腹が痛くなる毒って言われてね、あ、待って。その前にジリーに毒を入れろと言ったのはイレリアーナなんだ。あの女は……っ」
ぎゅっとアイネにしがみついてこれまでのことを一気に語り続けていた藍音だけど、ここで急に身体が震えた。
イレリアーナから受けたナイフの毒の苦しみを思い出したのだ。
「!……っ……はぁはぁ……っ!!」
もう死んだのだから痛くないし苦しくも無いはず。なのに身体を刺す苦痛に藍音は、アイネにしがみ付いたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
「大丈夫ですわ、藍音様。ゆっくり息をなさって」
優しい声音と共に、背中をそっとさすられる。
「……アイネ、ごめん」
「どうして謝るのです?」
「だって……だって、話の途中だったのに……」
「ふふっ、そんなこと気になさらないで。時間は沢山あるのですから。今は貴女が落ち着く方が先決ですわ」
「……うん」
年下に諭され、ちょっと恥ずかしいと思ったのが功を成したのか、藍音は次第に冷静さを取り戻す。
恐々と自分の左手首を見たら、傷も変色も無かった。そうだ。自分はもうアイネじゃない。
そのことを再び理解した藍音は、座り込んだ状態でだらしなく身体を伸ばした。
「はぁー……轢死と毒殺。どっちも嫌だけど……私は毒殺の方が辛かったな」
「そうなのですか。やはり一瞬で死ぬ方が楽なのですね」
深く息を吐きながら呟けば、隣に座ってくれたアイネはふむふむと真顔で頷き返してくれる。
「といっても、毒殺もほぼ一瞬だったけどね」
死に至るまでは、時間にして数分だったことを思い出し付け加えたら、アイネは目を丸くした。
「まぁ。即効性のある毒でしたのね。わたくしは1時間ほど苦しみましたけれど」
「そっか。じゃあ、私の方がまだマシだったのかな」
「かもしれませんが……こういうのを、どっちもどっちと呼ぶのでしょう」
「そだね」
なんだこの会話。アラサー女子と18歳の若奥様が交わす内容としては、あまりにシュール過ぎる。
でも二人らしいと言えば、二人らしくて――藍音とアイネは顔を見合わせて同時にプッと噴き出してしまった。
それから自然な流れでお喋りタイムが始まる。
出会って2秒でこれまでの出来事をダイジェストにしてお届けしたけれど、アイネは、再び語る藍音の話にちゃんと耳を傾けてくれた。
ジリーの話に涙ぐみ、グロイから帳簿を強奪したやり取りに声を上げて笑い、ヒューイの一件では意地の悪い笑みを浮かべてくれた。
父親ルードヴェイの話では神妙な顔になったと思えば「もうっ」と拗ねた顔になる。その表情は年頃の娘でしかなく、藍音は思わずアイネの頭をポンポンと叩いた。
「良い人たちだったよ。皆、アイネのこと好きだった……フェリクス君の剣術大会の報告ができなくてごめんね」
「いいえ、仲を取り持っていただけただけでも感謝しているのに、そんなこと仰らないで。それに、きっと弟は優勝しますわ」
「うん、私もそう思う。だってめちゃくちゃ食べる子だったし」
何の根拠も無いけれど断言できるのは、アイネがさっぱりした表情でいてくれるから。
一度目の女子会は散々だったけれど、二回目は和気あいあいとした雰囲気でいられてとても嬉しい。このまま思い出せる限りレブロン家の報告をして一緒に淡い光を放つ一本道を歩けたら、と藍音は思っていた。
しかし次のアイネの問いかけに、ニコニコしていた藍音の表情が一変する。
「ところで藍音様、ライオット様とイレリアーナ殿下の話題が一つも出てないのですが」
「……やっぱ気になる?」
「ええ。と言いますか、あのお二方の話題を巧妙に避け続ける藍音様のことが気になりますわ」
ふふっ、と鈴を転がしたような笑い声を立てて言葉を締めたアイネに、藍音は「あー……うん、えっとね……うん」と不明瞭な言葉を吐いて、そっと視線をずらした。




