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騒ぎを聞きつけてジリーが「奥様!」と叫びながらこちらに走ってくるのと、イレリアーナがナイフを藍音に突き立てるのは、ほぼ同時だった。
痛い!死ぬ!
そんなことすら考える余裕が無いまま、藍音は目をぎゅっと瞑った。
しかし痛みは待てど暮らせどやってこない。あるのは、懐かしい香りと逞しい腕の感触だけ。
「貴様、自分が何をしたのかわかってるんだろうな」
頭上から降ってくる声は、人が出せるようなものじゃないと思えるほど冷たいもの。
なのに自分を抱く腕も、頬に当たる胸板もどこまでも温かい。
――さっすが、ヒーロー泣かせのモブキャラ。こんな時でも最高のタイミングで登場するんだ。すっご。
窮地を救ってくれたライオットに向けて極めて場違いなことを心の中で呟く藍音だが、本当は泣き出したいくらいホッとしている。
少しだけ体を捻って、視線を上に向ける。久しぶりに見たライオットは、相変わらずのイケメンだったけれど、酷くやつれていた。
いつも綺麗にセットされた髪も乱れているし、額には汗も浮いている。イレリアーナの逃走の報せを受け、慌ててここまで駆けつけてくれたのだろうか。
淡い期待を持ってしまう自分が図々しくて、藍音は一人苦笑する。
「やっぱりお前は殺しておくべきだ」
藍音の心中など気付かないライオットは、物騒な発言をしながら片手を腰にやる。
今日の彼は帯剣している。小説を読んでいる藍音は、彼の剣の腕前がどれほどなのか恐らく誰よりも良く知っている。
「一瞬で死ねると思うなよ」
切っ先を前に向け、ライオットは唸るように言う。ただ藍音を抱く腕は緩めない。
じゃあ一体どうやって斬るんだと純粋な疑問が湧いた瞬間、自分を抱えてイレリアーナを一閃するライオットの姿が浮かんで慌てて身をよじる。
助けてくれた相手に対して失礼だと重々承知しているが、返り血を浴びるのはどうにか避けたい。
などという自分勝手な考えで結構真剣にもがいたその時、ライオットの腕の隙間からイレリアーナが見えた。
イレリアーナはライオットに突き飛ばされて、庭に転がっていた。ドレスも土がつき、一つに束ねた髪も解けて無様な姿だった。
なのに彼女は笑っていた。それも恋する乙女のように瞳を潤ませて。よろめく足で立ちあがって簡単に身繕いをすると、うっとりとライオットに向かって目を細めた。
「ああ……ライオット様。わたくしを迎えに来てくださったのですね」
よくもまあこの状況でそんなことを言えるのかと呆れたけれど、今のイレリアーナの瞳は濁っていて、彼女の心が尋常でないことがわかる。
しかしライオットは、そんなことで動揺なんてしない。
藍音を抱えていた腕を解くと、ゆっくりとイレリアーナに向け歩を進めた。すぐさまジリーが泣きそうな顔で袖を掴む。
心配かけてごめんと伝える代わりに藍音が微笑めば、ジリーはますます泣きそうな顔になった。
対してライオットは、女主人と侍女が無事を確かめ合うように涙ぐむ中、忌々し気にイレリアーナに向け口を開いた。
「黙れ。貴様から私の名が出るだけで不愉快だ」
「まぁライオット様。まだ明るいですのに、そんな……恥ずかしいですわ。わたくしの口を貴方の唇で塞いでくれるなんて」
片頬に手を当て品を作るイレリアーナは、完全に自分だけの世界に入ってしまっている。
「ねえ、ライオット様。今度はいつわたくしと一緒に夜会に行ってくださるの?あまりわたくしを待たせないでくださいね。だってわたくし貴方に冷たくされたら、どうにかなってしまいそうなの。それほどお慕いしているの」
「黙れ」
「今すぐお屋敷に戻りましょう。ふふっ嬉しいわ。……今夜から、わたくしは貴方と一緒の寝室になるのね。ああ、待ち遠しい」
「黙れ!」
「まぁライオット様ったら、照れていらっしゃるの?可愛らしいですわ。貴方にもそんな一面があったなんて。わたくしこんな愛らしくて素敵な旦那様の妻になることができて幸せですわ」
「うるさい!黙れ!!」
怒りを丸ごと投げつけたようなライオットの叫び声は、自分の世界に入ってしまったイレリアーナを現実に引き戻すのに十分な力があった。
「……どうして」
恋する男から拒絶されたイレリアーナは、くしゃりと顔を歪める。
どうもこうもない。全て自分が招いた結果だと、ここにいる誰もがそう思った。そしてイレリアーナが罪を償う時が来たとも思った。
しかし彼女はなぜかここで高笑いした。
「あはっははっははっはっ、あー良かった!大丈夫ですわ、ライオット様。貴方を縛るあの女はもう死にますから!今度こそちゃんと殺してあげますわ!」
壊れたように笑うイレリアーナの視線は藍音に固定されている。
――え、私? ちょっと嘘ですよね??
ヒーロー泣かせのモブキャラに助けられたはずなのに、まさかまさかと藍音は笑い飛ばそうとしたが、急に左手首に痛みが走った。
恐る恐る視線を向ける。そこには絆創膏すら必要としない小さな傷があった。たぶんイレリアーナが持っていたナイフによる傷だ。わずかに血が滲んでいる。
でも藍音はその傷を見た途端、「あ、詰んだな」と思った。傷を中心に皮膚が赤紫色に変色していたのだ。ナイフに毒が塗られていたことは疑う余地はない。
「奥様!い……医者を呼びましゅ。どうかお気を確かに!」
冷静沈着なジリーが噛むほど、藍音はあっと言う間に危険な状態に陥った。
手足がしびれる。呼吸が苦しい。息を吸っても全然肺に空気が満たされない。立っていることが辛くて、気付けば地面にしゃがみ込んでいた。
いつの間にかジリー以外の使用人たちも館の外に集まってオロオロしている。「毛布を持ってこい」とか「いやそれより早く中に」とか色んな声が聞こえてくる。
でも誰が何を言っているのかは藍音はもうわからない。毒のせいで目が見えないのだ。
それでも沢山の人がアイネを囲んでいるのはわかる。身を案じてくれているのもちゃんと伝わってくる。
こんな時なのに、アイネに向けて「良かったね。皆、心配してくれてるんだよ」と伝えたくなる。加えて、
「アイネ!しっかりしろ、アイネ!!」
他の誰とも間違えようのないライオットの声が鮮明に聞こえる。毒のせいで身体の感覚なんて無いはずなのに、抱きしめられているとわかるのはなぜだろう。
「……様、旦那様」
「アイネ、すぐに医者が来る!気をしっかり持て!」
ここまで重篤状態だと、気合でどうこうなるものでもないがと藍音は冷静に思う。死期が近いことは自分が一番良く分かっている。なにせ死を経験するのは二度目だし。
それよりイレリアーナはどうなったのだろうか。斬ったのか。それとも拘束したのか。また逃亡したなんていうオチだけは笑えない。
……と、頭の中で考えていられたのはここまでだった。もう意識がうまく保てない。
藍音は肺に残った最後の息を吐く。そして終焉の言葉を心の中で吐いて、二度目の生に幕を閉じた。
――良かったね、アイネ。今度は旦那様がリアルタイムで死んだことに気付いてくれたよ。




