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イレリアーナは藍音と向き合った途端、片手を振り上げ頬を張ろうとする。しかし藍音は間一髪でそれを避けた。
「まぁイレリアーナ殿下、危ないではないですか」
わざとらしく両手を口元に当てて驚いてみせれば、イレリアーナは地団太を踏んで叫ぶ。
「お黙りなさい!貴女がレブロン家に嫁いだせいで、なにもかも駄目になってしまったじゃない!貴女のせいでわたくしは修道女にならないといけないわっ。どうしてくれるのよ!!」
耳をつんざく程の金切り声に、藍音は怯えることも不愉快な顔をすることもしない。全て想定内。むしろ小気味いい。
それが余程悔しかったのだろう。イレリアーナは再び声を張り上げた。
「修道女になったら、もう一生ライオット様に会えないじゃない!わ……わたくしが……このわたくしこそがライオット様の妻になるはずだったのに!!」
叫び終えたイレリアーナは激昂のせいで瞳から涙が零れ頬に伝う。
かつて彼女は国王に愛されていたはずの美しい姫であったのに、今や鬼女にしか見えない。
そんなイレリアーナだが、実はずっと前からライオットに恋心を抱いていた。彼の妻になることを夢見ていた。
側室の一件で王城を追放されたイレリアーナは、王族としての権力を全て取り上げられた。しかし内心喜んでいた。なぜなら、恋する男と同じ屋根の下で過ごすことができるから。
しかしイレリアーナは、ライオットの正妻になることはできなかった。当然といえば当然だ。ライオットは、イレリアーナを殺す目的でレブロン家に引き取ったのだから。
その後、祖父同士の約束でアイネがレブロン家に嫁いできた。
真っ白な婚礼衣装を身に着けたアイネを見て、イレリアーナはさぞ悔しかっただろう。
『どうしてわたくしじゃなくて、あの娘が正妻になるの?』
憎しみに心を支配されたその時、イレリアーナは恋に狂った悲しく哀れな女になった。
幾度も与えられた記憶の中で見たアイネの姿は口下手で上手に気持ちを伝えることができないけれど、本当は家族想いで心根の優しい子だった。
でもイレリアーナのことをライオットの愛人だと信じ込んでいたアイネは、彼女に対してだけは良い子じゃなかった。
緑陰の館に住まいを移してすぐ、藍音は夢を見た。それはアイネの記憶でもあった。
モノクロの風景に、ところどころ寒色系が混ざる視界の中、アイネとイレリアーナがレブロン家の庭で向き合っている。
胸を大きく開いたドレスをまとったイレリアーナが、アイネのことを「みすぼらしい」とか「貧相だ」とか、意地の悪い言葉を吐く。
対して新妻らしい品のあるドレスを着ているアイネは、スカートの裾をぎゅっと握って俯いている。
ジリーは傍に居ない。もうこの頃にはヒューイに帳簿を奪われてしまった後なのだろうか。あれだけ沢山いる使用人達の姿はどこにもいない。庭師さえ。
第三者としてアイネの記憶を垣間見るのは初めてで、藍音は状況を把握しようとあちらこちらに視線を動かす。そうしていても、イレリアーナはアイネの心を傷付ける言葉を吐き続ける。
――まぁ……夢だし殴って良いよね?
我慢の限界を超えた藍音が拳に息を吹きかけて、少し離れたイレリアーナの元に近付こうとする。
しかしここで、俯いていたアイネが顔を上げた。
『言いたいことはそれだけですか?ならわたくしも言わせていただきます。イレリアーナ様、貴女が王城を追放された王女だとしても、わたくしはライオットの正妻であり、この屋敷の女主人です。身の程を弁えなさい』
予想に反してアイネは毅然とした態度を取った。イレリアーナはびくりと肩を震わせた。
『イレリアーナ様、一度しか言いません。良くお聞きください。貴女はわたくしの慈悲でここにいるのです。それをお忘れなく』
王族に対してこんな口の利き方は重罪だ。しかしこの世界では、屋敷内限定でアイネのほうが立場が上である。
それをはっきりと言葉にした時、アイネの手足は震え緊張のせいで声だって震えていた。でも、イレリアーナの方がもっと震えていた。状態がどうあれ、アイネの完勝だった。
ただその後アイネは、報復を恐れたのか、完勝したのに愛人が屋敷にいることが辛かったのか、ライオットにこの件を報告する時間を与えてもらえなかったことに傷付いたのか、その全部なのかわからないけれど、引きこもりは続いた。
その辺りは夢で見ることはできなかったけれど、夢から醒めた時、アイネは愛人であるイレリアーナにでしゃばるなと釘を刺しただけだと思った。
しかし半日経って、そうじゃないことに気付いた。
アイネはイレリアーナがライオットに純粋な恋心を持っていたことに気付いたのだ。ライオットがイレリアーナに、ではなく。
そうなれば夢の内容は変わってくる。
アイネは、好きな人のお嫁さんになりたい。正式な妻になりたいというイレリアーナの夢を砕いたのだ。己が持つライオットと離縁したい気持ちを巧妙に隠して。
同じ女性として、なかなかエグイやり方だと思う。でも効果は抜群だ。
後を引き継いだ良い人ではない藍音は、そのやり方に乗っかった。一度はライオットに全てを託す気でいたが、彼との手紙でやり取りする際に、イレリアーナをどうか修道院に送って欲しいと懇願した。
当然、ライオットは難色を示した。しかし藍音は粘った。だって、プライドの高いイレリアーナにとって、一生ライオットと会えない方が殺されるより辛いことのはずだから。
だから藍音は、イレリアーナを殺すことが一番の復讐だとわかっているが、どうか思い留まってほしいと幾度と無く訴えた。イレリアーナが持つライオットへの恋心を伝えることはせずに。
それでもライオットがイレリアーナを修道院に送らない可能性は十分にあった。しかし、彼は藍音の願いを叶えてくれた。本当の理由を隠していることを知っているくせに。
「はっ。誰が貴女のような女を妻にしたいものですか」
長い回想を終えた藍音は、鼻で笑いながらイレリアーナに言葉を返す。すぐさま言い返そうとするイレリアーナを制するように、藍音は再び口を開いた。
「ああ、でもイレリアーナ殿下は一生異性を遠ざけて、神様のお傍にいることになるのですから、考えようによっては神様と結婚するようなものですわね。良かったではありませんか。ライオットより遥かに格上の存在の妻になれるのですから……あっは、ふふっ」
自分が言われたら絶対にキレる。間違いなく激怒すると断言できる言葉を吐いて、最後に豪快に笑ってやる。
これぐらいしたって良いじゃないか。だってアイネはもう修道女にすらなれないのだから。
でも真実を知らないイレリアーナにとったら、履きつぶした靴を食べろと言われるくらい屈辱的なものだった。
初雪が降った日、垣根越しに対峙した時と同じ表情を浮かべてイレリアーナは口を開く。
「……あの毒で死んでおけば良かったのに」
「わたくし、悪運だけは強くて。ごめんあそばせ」
背筋がゾッとするような声で言ったって、所詮は負け犬の遠吠え。アラサー女子には痛くも痒くもない。
「っ!……その言葉覚えておきなさいよ!」
言うが早いかイレリアーナは、己の胸元に手を突っ込んだ。
何してるの?と思った次の瞬間、豊満な胸の間からキラリと光るものが見えて、藍音は後ずさった。
イレリアーナの手にはナイフが握られていた。
「貴女なんか消えておしまいなさいっ」
これぞまさしく悪役令嬢という台詞を吐いたイレリアーナは、ナイフを両手でしっかり握り藍音に突進してきた。




