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「姉上、ご出席は難しいでしょうか?」
無言のままでいればフェリクスがしょんぼりした顔で尋ねてくる。その姿は大型犬にしか見えない。
フェリクスとアイネは3つ違い。藍音とは一回り以上離れている。体格の良い彼は見た目は既に青年ではあるが、一つ一つの仕草はまだ少年で、そのちぐはぐな感じが妙に可愛らしい。
「もちろん喜んで出席させていただくわ。さあ、試合前なのですからしっかり食べて体力を付けなさいね」
にこっと微笑んで、藍音はフェリクスの前にサンドイッチを置く。
手のひらに乗る小さなそれは、すぐにフェリクスの口の中に消えていった。少し遅れてルマリアは満ち足りた笑みを浮かべながら「貴女も召し上がりなさい」と言ってアイネの前にケーキを置いた。
きっとアイネは、こういう家族になりたかったのだろう。
家族とテーブルを囲んで、他愛ない話をして笑い合う。そこに父ルードヴェイの存在が含まれていたかどうかはわからないが、9年前に心から歓迎した二人に笑みを向けられることを望んでいたはずだ。
また一つ、アイネが望んだ未来を描くことができて嬉しい。でも本当は自分じゃなく、アイネ本人がここにいてくれたらと、藍音はやるせない気持ちを抱えながら微笑み返す。
そろそろ陽も西に傾いてきたし、お茶会もお開きにしよう。
「では次にお会いできるのは当日ですね。お二人ともお体に気を付けてくださいね」
藍音が締めの言葉を紡げば、なぜかここでルマリアの表情が一変した。
「……ねえ、アイネ。一度くらい屋敷に戻ってきてくれないかしら?あの人も会いたがっているの。お願い」
何を言い出すのかと身構えていた藍音は、まったく予期せぬルマリアの発言に目を丸くする。
「お父様がわたくしに会いたい……ですか?」
あの頑固者があからさまに娘を恋しがるなんて、にわかには信じられない。
「ええ。毎日、貴女のことを考えているわ。その証拠にわたくしが貴女に会いに行くと、決まってどうしているかしつこく尋ねてくるのよ」
「それは、問題行動を起こしていないかという確認ではなくて?」
「あら、いやだ。そんなわけないじゃない。アイネったら……ふふっ」
少女のように笑うルマリアは、アイネが本気で冗談を言っていると思っているのだろう。だがしかし、こっちは本気だ。
「いえ、笑い事ではなくて……それにお父様には離縁後もディロンセ邸には戻らないと伝えてます」
駄目だとも言ってなかったし、と付け足せばルマリアは困ったように眉を下げた。
「あの人は本当に素直じゃないわね。あのねアイネ、あの人はつい強がってみせるけれどとても寂しがりなのよ。口では言ってないかもしれないけれど、なんだかんだ言っても貴女がディロンセ邸に戻って来てくれると信じてたみたい」
「そうでしょうか」
「そうよ、絶対に!」
強く言い切るルマリアから視線をずらして、義理の弟であるフェリクスに視線を向ける。彼はびっくりするほど生真面目な表情を浮かべていた。
「姉上、僕からもお願いします。これを機に、どうぞ屋敷に戻られてください。女一人で住むのは何かと不安ですし」
「え?一人って……ちょっと待って。ここにはジリーもいるし、使用人だって何人もいるわ」
「そういう意味ではありません。姉上は少々世間知らずのようですね。あのですね、異性から与えられた屋敷で一人で住んでいればロクな噂が立ちません。俺は姉上の意思を尊重したいとは思います。でも姉上のことを誰かに悪く言われるなんて絶対に嫌です。やはり女性は誰かの庇護下に置かれるべきです」
「……ははは」
ちょっとというか、かなり女性軽視な発言が混ざっていた。けれど、この世界ではそんな常識が通用しないことはわかっているので黙っておいた。
ただ、ずっと背後にいてくれるジリーが、フェリクスに向けて苛立ちを隠さないのが気が気でない。
藍音はディロンセ邸に戻るか戻らないかは上手にお茶を濁して、背中を押すようにして二人を馬車まで見送った。
「――さて、食事の前に帳簿を付けましょうか。ジリー」
「かしこまりました」
馬車が視界から消えるのを待って、藍音は侍女に声をかける。
ジリーは一つ頷き、先に館の中に入る。おそらく先に行って、必要な資料などを用意するのだろう。
レブロン邸を出るときはこれでお別れと思っていたけれど、今となっては彼女の存在はとても大きい。
「……でも、ジリーもいつか結婚しちゃうんだよねぇ」
素の自分の呟きが思いのほか大きくて、藍音は苦笑する。
この世界の結婚適齢期は20歳まで。それを越えると行き遅れとされる。元の世界で十代で結婚となれば真っ先に「さずかり婚?」と訊かれてしまうが、世界が変われば常識も変わってしまう。
そんな当たり前の事実に気付いて、また藍音は苦笑する。
既にジリーは二十歳を過ぎている。美人で仕事ができる彼女が行き遅れと後ろ指差される現実に苛つきは覚えるけれど、素敵な伴侶を見付けて欲しいと願うのも嘘偽り無い気持ちだ。
ただジリーが居なくなった緑陰の館は、ものすごく寂しいとは思う。藍音が寂しく思っても、アイネは笑顔で見送るはずなのに。
――駄目だ。今日はちょっと変な日なのかもしれない。
こんな気持ちになるなんて、アイネが叶えたかったことを次々に叶えることができて、気が緩んでしまった証拠だ。気を引き締めないと。
頬をパンッと叩いて藍音は気合を入れる。そして、ジリーが待つ自室に戻ろうと庭から背を向けたその時、人の気配がした。
来ると思っていた。振り返って誰かも確認していないけれど、それが誰か藍音にはわかる。
――ああ、ライオットが私の願いを叶えてくれたんだ。
彼なら絶対にそうしてくれると自信を持っていたわけじゃない。だってそれは彼の意思に反することだから。でも、あの夜の熱を心のどこかで持っていてくれたなら、そうしてくれると思っていた。
つまり藍音は知らず知らずのうちにライオットを試していた。そして彼は応えてくれた。
「アイネ!よくもやってくれたわね!!」
窓ガラスに爪を立てたような金切り声が、藍音の背中を刺す。
ゆっくりと振り返れば、侍女のような地味なドレス姿のイレリアーナがいた。自慢の髪は一つに束ねただけで、化粧すらしていない。初雪が降った日に垣根越しに見た姿とは別人のようだ。
しかし藍音は驚くことはしない。それどころか薄く笑っている。
なぜならイレリアーナがこんな格好をしている理由を知っているからだ。
王城から追放されたイレリアーナは、今度はレブロン家を追放され修道院に行く。もう一生そこから出ることはできない。
ただその輸送中に、どうやってかはわからないが逃亡したのだ。そしてここまで辿り着いた。アイネに怒りをぶつけるために。
藍音は全部を知っている。しかしわざと頬に手を当て首を傾げてみせた。
「あら、何を仰ってるのかわかりませんわ」
とぼけてみせれば、イレリアーナは鬼の形相で詰め寄って来た。




