8
ライオットとカイロスは澄み切った星空の下、無言で殴り合っていた。
ライオットが右ストレートを決めようとすればカイロスはそれを片手で受け止め、蹴りを出す。しかしライオットはそれを肘で受け、反対にカイロスに蹴りを入れる。見事、蹴りがわき腹に決まりカイロスがよろめいたと思えば、それはフェイクでカイロスは奇麗な左フックをライオットにお見舞いする。
それは元の世界で智哉が大好きだった年末の格闘技番組のようではあるが、品の良さを捨てきれていない二人の殴り合いは、なんだかダンスを踊っているようにすら見える。
だからこそ、耳が痛くなるような殴打音は似つかわしくない。
「お二人とも、そこまでです!」
誰かに観られたらどうするという不安より、責任感の強い学級委員長のような気持ちで茂みから顔を出して藍音は叫んだ。
声の主がアイネだということには気付いたのだろう。二人は敵意の無い視線をちらりとこちらに向ける。だが、殴打音は消えることが無い。
ライオットは、一瞬だけ悪戯が見つかった子供のような顔をしたが、カイロスはその隙に一撃入れた。まったく男というのは幾つになってもお子様だ。
「いい加減になさいませ」
溜息交じりに殴り合っているライオットとカイロスの間に無理矢理に入る。
いつ殴られても仕方のない状況ではあるが、彼らは腐っても紳士のようで藍音が割って入った途端、殴り合いを止めて半歩ずつ距離を取った。
「それでお話はお済ですか?旦那様、殿下」
敢えて“喧嘩”とか“殴り合い”とか物騒な言葉を避けて藍音が二人に尋ねる。
「んー、終わりじゃないけれど君が来てくれたから終わってあげようかな」
「殿下のお心遣い、痛み入ります」
身体の向きを変えて藍音はカイロスに向けて、ドレスの裾を広げて腰を落とす。
こんな男に頭を下げるなんてという思いはあるけれど、この話し合いが反逆罪とみなされライオットが投獄されレブロン家が窮地に陥ってしまったら一大事だ。彼の命ではなく、慰謝料の面で。
しかし藍音の計算高い行動にライオットは気付けないようで、強く肩を掴まれた。
「アイネ、君が殿下に頭を下げることは無い。私が――」
「旦那様。お、だ、ま、り、な、さ、い」
繊細でいつもメソメソ泣いていた女性とは到底思えない厳しい口調に、ライオットは小さく息を呑んだ後、口を噤んだ。
そんなライオットを一瞥すると、再び藍音はカイロスに向けて腰を落とす。
「殿下、恐れながらこの場を去る許可をわたくし達にお与えくださいませ」
「えー。せっかくアイネ殿が来てくれたんだから、ここからは私と二人っきりで」
「恐れながら殿下、そうなった際にはまた痛い思いをされることになります。よろしいでしょうか?」
「うーん……よろしくないなぁ」
苦笑を浮かべるカイロスは、既に許可を与える気だったのだろう。クスリと笑って、片手を振りながら自らこの場を去っていった。
カイロスの姿が完全に見えなくなったのを確認すると、藍音は無言のまま固まっているライオットの腕を引っ張って歩き出す。
王城の地図などさっぱりわからないけれど、適当に歩けばどっか座れるところもあるだろう。途中で手を離したけれど、ライオットは不貞腐れた顔をしながらも素直についてくる。
その素直さは別のところで発揮してほしかったと思いつつ、藍音は目に付いたベンチにライオットを座らせる。
タイミング良く、王城メイドが通りかかった。藍音が薬箱を頼めば、メイドは余計なことは聞かずにすぐに持ってきてくれた。
「さて旦那様。まずは傷の手当てをしましょうか」
呆れ声でそう言って、薬箱の蓋を開けて傷薬の瓶の蓋を開ける。
その間、ライオットは小声で「手当は自分でする」と言い張っているが、鏡も無いこんな状態でピンポイントに薬が塗れるとでも思っているのか。
「大人しくしてくださいませ。顔が良いのが貴方の唯一の長所なんですから」
「財もあるだろう」
片手でタイを緩めながらふてぶてしいことを言うライオットに、藍音の眉間につい皺が寄る。
「それはご先祖様の頑張りによるものでしょう。ま、そうなると貴方の顔もご両親のお力によるものね」
撃沈したライオットは、もう四の五の言うことなく大人しく目を閉じた。
さっさとそうすれば良かったじゃないか。そう言いたい藍音だが、また口を開けられたら手当てが進まないので黙々と傷薬をライオットの口元や頬に塗りこんだ。
大方手当を終えて、傷薬を薬箱に戻す。
「で、一体何が原因で拳で殿下と語り合っておられたのですか?旦那様」
「別に大したことではない。それより君は殿下に何を脅されたんだ?」
「……別に大したことではないですわ」
アイネの名誉を守る為に、藍音はそっぽを向く。しかしライオットに顎を掴まれ、強制的に目が合う。
「言ってくれ。頼む」
「あの……それが人にものを頼む態度でございますか?」
「?……っ、す、すまない」
ばっと手を離したライオットを藍音はジト目で睨む。しかし何だか全てが馬鹿馬鹿しくなり、大仰に肩をすくめた。
「本当に大したことじゃないですの。ただヒューイの不正を暴くために王都に出た際に、身分を隠したカイロス殿下とバッタリ遭遇してしまい……その……ジリーが突き飛ばされてしまったこともあって、わたくしが不届き者と勘違いしてしまっただけですの」
「……そんなことがあったのか」
「ええ。ただわたくしもジリーも無傷だったので、すっかり忘れていましたけれど」
上手に誤魔化して説明ができたことが嬉しくて藍音は小さく笑う。
「そうか。確かに君は殿下とは面識がなかったな。だから夜会で会えば驚くのも無理はない……か」
「はい。そういう経緯がございましたので、カイロス殿下の顔色を窺うような真似をしてしまったのです。別に悪いことなんてしてはいなかったのですけど」
「そうだな。だがそれ以前に、私に言って欲しかったが」
「その発想は微塵もございませんでした。申し訳ございません」
食い気味に謝れば、ライオットはムッとした顔つきになる。しかしそれはすぐに消え、今にも泣きそうな顔でこちらに手を伸ばす。
「……本当に君が無事で良かった」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟なんかじゃない。ああ……でも私は王族に対してとても神経質になってしまうから……君には大袈裟に見えるのかもしれないな……とにかく良かった」
許可なく手を握られてたことに、不満を訴えることができない。それほどにライオットは何かに怯えていた。
――ねえ、なんでそんなに王族を怖がるの?
小説の中のライオットは、ヒーローよりも何でもできるヒーローだ。そして藍音が見た実際のライオットは、いつでも自信過剰で、王子にでも平気で喧嘩を売れる怖いもの無しの男だ。
なのに今、彼は暗闇を怖がる子供みたいに震えている。
「旦那様……あの……」
「アイネ。君に聞いて欲しいことがある」
夜空に煌く星々に見下ろされながら、ライオットは「私には年の離れた妹がいた」と切り出し、それからゆっくりと語り出した。
レブロン家が抱える闇と、悲しい歴史を――




