2
――どうして?ねえ、どうして!?どうして上手く踊れないの!!
リイルが神に祈りを捧げている頃、藍音は心の中で悲鳴を上げていた。
アイネから受け継いだ記憶によれば、アイネは社交界デビューの際にちゃんとダンスを披露した。それから引きこもりになるまでは毎日練習を欠かすことはしなかった。
「いつか夫婦で夜会に参加した際に、旦那様に恥をかかせてはいけないわ」
そんな健気な気持ちで人知れず自室でステップの練習をしていた。練習しすぎて足の裏の皮が捲れてしまうほど涙ぐましい努力を重ねていた。
記憶を覗き見する限り、アイネは決して運動神経が良い方ではない。でもパートナーが背を支えてくれなくても滑らかに踊れるアイネなら、きっとダンスの知識などない自分でもちゃんと踊れるだろう。
そう楽観視してしまった藍音は、試しにジリーを誘って踊ってみた。結果、ジリーの足を踏みまくるという悲劇を招いてしまった。「私のこと嫌い?」という目で見てくるジリーの視線が痛い、痛い。
夜会まであと20日。これから必死に練習しても、完璧に踊れる確率は限りなくゼロに等しく、その間にジリーの足が使い物にならなくなる可能性は100パーセントだ。
――アイネが夜会で大恥をかくなんて嫌だ!悪いけど、ジリーと二人で年越し女子会するほうがよっぽど有意義だと思うな、私。
とてもズルいとは思いつつ藍音は、やっぱ無しの方向で進めようと気持ちを切り替える。そしてそれを声に出そうとしたその時、
「失礼する」
一声かけてレブロン邸のボールルームに足を踏み入れたのは、この屋敷の当主ライオットだった。
使用人であるジリーとリイルは姿勢を正して腰を深く折る。しかし藍音は、その場に立ちすくむだけだった。
「……あの……どうかされましたか?」
向かい合ったライオットに、藍音は少し悩んで尋ねてみる。
「どうもこうも、君がダンスの練習をしていると耳にしてな。パートナーが居なければ練習にならないだろうと思って駆けつけただけだ」
誰だ、この人にチクったのは!と藍音はとっさに密告者を恨んだ。しかし密告した犯人探しより優先すべきことがある。
「まぁ、それはお気遣いいただきありがとうございます。ですが、練習はジリーと二人でできますので」
「侍女の足を壊す気か?やめておけ」
「っ……!!だ……旦那様、もしかして」
「ああ。一部始終、君の練習風景を見させてもらった」
よりにもよって一番弱味を見せたくない相手にこんな醜態をさらしてしまうなんて。
直視できない現実に藍音はフラりとよろめいた。すぐさま太い腕が腰にまとわりつく。
「大丈夫か?あまり根を詰めすぎるのはよくない」
「は……はぁ」
ライオットの言う通り大丈夫ではない。特に今の姿勢が。
「あの……旦那様、少々近いですわ。失礼」
抱き寄せられている格好に要らぬ誤解を招いては大変だと藍音はそそくさとライオットから離れる。一言断りを入れてあげたのは、最低限の社会人としてのマナーだ。
しかしライオットは「そこまで嫌がらなくても」と、露骨に傷付いた顔をする。項垂れ、少し長い前髪が頬にかかる様はイケメンの名に恥じない美しい姿だが、藍音の心には響かない。
それより彼の勘違いに便乗して、どうにかしてこの場を去るほうが重要だ。
「ごめんなさい汗をかいていましたので、少し恥ずかしかっただけですの。どうかそんな顔をなさらないでくださいませ。それと旦那様の仰る通り、根を詰めすぎてしまっておりましたわ。ですから、今日はここまでにします。ジリーの足も心配ですし」
ではでは。と、藍音はジリーの腕をつかんでボールルームを後にしようとした。だが、今回もそう簡単に脱出することはできなかった。
「待ちなさい」
ライオットの呼び止める声に、ああやっぱりと藍音は心の中で溜め息を吐く。この人は本当に妻を苛立たせる才能だけはある。
「なんでしょう?できれば早々に湯を浴びたいのですが」
「そうだな。風邪を引いたら元も子もない。だから、」
変なところで言葉を止めたライオットに嫌な予感がする。いや、嫌な予感しかしない。
その藍音の勘は当たってしまった。
「1曲だけ踊って今日は終わりにしなさい」
すっと差し出されたライオットの手を見つめながら、藍音は「ああ、やっぱり」と心の中で再び溜め息を吐いた。
蓄音機から流れる曲を耳にしながら、藍音はしみじみと思う。
踊るための曲というのは、世界が違っても似たり寄ったりなんだなと。それとも作者のイメージした文化がしっかりと反映されているから、耳に馴染みやすいのか。
そんなことを考えられる藍音は随分と余裕があるように見える。しかしその逆だ。
ジリーと組んで踊っていた時の方が何倍もマシだと思うほど、藍音はライオットの足を踏みまくっている。
唯一の救いはライオットが硬い革靴を履いていること。これがジリーが履いてる靴のように柔らかい素材であったら……と考えたら、身震いをしてしまい、さっきよりも強くライオットの足を踏んづけてしまった。
流石にこれは痛かったのだろう。ライオットは片手を挙げて曲を止めるようリイルに指示を出した。
「ごめんなさい……旦那様。その……悪気はなかったのです。でも、痛かったですよね……本当にどうお詫びすれば良いのか……」
苛立つこともあったし、許し難いこともされたけれど、こんなところで仕返しをするつもりはなかった。本当に心から、ライオットの足を踏みまくってしまったことを申し訳なく思っている。
ただあまりに出来の悪いステップを披露してしまった恥ずかしさがあり、上手く言葉が出てこなくて、もどかしさから指をこねこねしてしまう。
そんな藍音の気持ちを察してくれたのか、ライオットは緩く首を横に振った。
「わかっている。そんなことで私に詫びる必要は無い」
「ですが……その」
寛大な言葉をいただいたけれど、痛いものは痛いはずだ。
いつもはあまり表情筋を動かさないジリーだって、今は若干涙目で濡れたタオルで足の甲を冷やしている。
「あの……濡れたタオルをお持ちしますので、一先ずそれで応急処置を」
「痛くない。それより、君がダンスが上手く踊れない原因がわかった」
「っ!……それはなんでしょう!?」
運動神経が悪いという理由以外で何か改善できる方法があるならばと、藍音は急かすようにライオットをジッと見つめる。
耳を少し赤くしたライオットがコホンと咳ばらいをして、口を開いた。
「君が相手の足を踏んでしまうのは、ステップが苦手とかそういう問題ではなくて一人で踊ろうとしているからだ。そもそもダンスというのは男性側がリードして踊るもの。なのに君は、一人で全部を抱え込もうとするかのように踊っている。それではどれだけ練習しても上手くはならない」
「……っ」
「まずは相手に全部任せて踊りなさい。……幸いなことに私はダンスがかなり得意ときている」
最後はとても言いにくいことだったのか、ライオットは横を向いて言った。呟くような小さな声だった。




