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「旦那様、これが人の話を聞く態度でございますか?」
にこりと笑った藍音を見て、ライオットはここでようやくこれまでのアイネとは違う何かを感じてくれたようだ。どうやら小説の設定は間違っていないようで、察しは悪くない。
「お話を再開させていただきたいので、あちらに移動願います」
そう言って藍音はコツコツとヒールの音を響かせて一人掛けのソファに座る。ライオットは立ち上がる素振りを見せない。
「耳を寝室にお忘れになったのですか?あらあら旦那様……おいたわしいですわ」
嫌味っぽく頬に手を当て溜息を吐くと、ライオットは青筋を立ててようやっと向かいのソファに着席した。
「で?話とは」
よほど今しがたの発言が許せなかったのだろう。ライオットは怒りの感情を隠さず切り出した。
「一分一秒だって貴方の傍にいたくありません」
「具体的な理由を述べてもらおう」
膝に腕を置き、指を組んで前のめりになったライオットは多少は聞く姿勢になった。
この機を逃すまいと藍音はコホンと咳払いをして、嫁いできてから2年間のアレコレを語り出す。
「まず、嫁ぎ先に愛人が待ち構えているなんてあり得ません」
そう。信じられないことに、ライオットには愛人がいる。相手は王族。第8王女イレリアーナ・フェル・オルディス。
アイネより2つ年上の彼女はネット小説の中では悪女という立ち位置だった。側室達が娘の自分より国王に大事にされていることに腹を立てて、当時、最も寵愛を受けていた女性の化粧品に毒を混ぜて顔をめちゃくちゃにしたのだ。
被害にあった側室の一人は心を壊して奇行を繰り返した末に城を追放された。ついでにイレリアーナも城を追放されて、ライオットの愛人になった……というのが小説情報である。
実際、アイネから受け継いだ記憶でもライオットは頻繁に別邸にいるイレリアーナの元に通い、夜会時にはアイネではなくイレリアーナをパートナーにして出席している。
藍音は、実際にイレリアーナを見てはいない。だがアイネの目に映る彼女の容姿は妖艶な美女で男心をくすぐる。
でも悪女を愛人にするライオットは人としてどうかと思う。
「まだそんなくだらないことをことを考えているのか。馬鹿馬鹿しい。何度も言っているが、彼女と私の関係は――」
「それと、愛人の件だけではございません」
見苦しい言い訳をしようとするライオットをアイネは早口で遮る。誰が主導権を渡すものか。
「わたくし、今日、ここに来るまで一度も使用人達に道を譲られることも、礼を執られることもなかったですわ」
「なんだと……それは本当か?」
「いくらわたくしが貴方と離縁したくても、嘘は言いませんよ」
あらぬ嫌疑をかけられムッとする藍音だが、ライオットはそれ以上に不機嫌な顔をしている。
「信じられない」
「同感ですわ」
「グロイは一体何をしているんだ」
グロイと、知らぬ名が出てアイネは首をかしげる。一拍置いてレブロン邸を取り仕切る執事の名だとアイネの記憶が教えてくれた。
「今すぐグロイを呼んで問い詰める。少し待て」
「いえ、待つのは貴方ですわ」
「なんだと?」
意味がわからないと顔に出すライオットに藍音は馬鹿を見る目になる。
「勘違いされているようなので敢えて言葉にさせていただきますが、信じられないのは貴方で、問い詰められるべきなのも貴方ですよ」
「は?」
イケメンは間抜けな声を出しても様になる。だがしかしイケメンが何をしても許されるわけではない。
そしてこの瞬間、藍音はライオットのことを小説の登場人物としてではなく、一人の男として嫌いになった。
「あのですね使用人は屋敷を映す鏡です。貴方が日頃、わたくしに対して取っている態度を見て、使用人達はわたくしに無礼を働いても良いと判断したのでしょう。つまりこの問題はグロイの責任ではありません。当主である貴方にあるのです。責任転嫁はおやめください」
冷めた口調で一気に語り終えた藍音に待っていたのは、ライオットの不満げな表情だった。
「ま......今更、責任を追求する気も改善を望むつもりもございません。それにわたくしは、ご当主様になんの期待もしてませんので使用人の件はこれで終わりにしましょう。あらら……何か言いたげな顔をしておられますが、もしかして当主様が他にいらっしゃるとでも?」
口元に手を当ててわざとらしく驚く藍音だが、心底腹が立っている。しかし胸の中で抱える感情は、ふつふつと煮えたぎっているわけではない。むしろ冷え冷えとしている。
「貴方の表情を見る限りでは、まるで自分が被害者のようだと主張されておりますね。……旦那様、眉間の皺が増えましたが、わたくし何か間違ったことを言ってます?」
「……君に答える必要はない」
「さようですか。わたくしも聞きたくなんかありませんので、どうぞご勝手に。ただ、これだけは言わせてください。そんな貴方にわたくしはもう付き合ってられません」
「何が言いたいんだ」
目つきを鋭くしたライオットに、藍音は吹き出しそうになった。
だって藍音はさっきからずっと一つの話しかしていない。なのに、今更「何が言いたい」だと?この男はとことんアイネを馬鹿にしている。
「言わなければわからないのですか?」
震える声で尋ねれば、ライオットは最上級に厄介事を押し付けられたような顔になった。
「とどのつまり、君は私に文句をつけたいだけなんだろう。だが、それこそが時間の無駄だ。こんな無意味な時間を過ごすより、鬱憤を晴らしたいならいつものように外商を呼んで好きなものを買えばいいじゃないか。予算が足りないならグロイに言え。ある程度の都合はつけてやる。これ以上は時間の無駄だ」
「なっ……なっ」
わなわなと唇を震わす藍音にライオットは冷たい双眸を向けた。