11
音もなく扉が閉まり、部屋の空気が一気に重くなった。
「で、旦那様。お話とはなんでしょう?」
どうせライオットは言いたいことを言うまで部屋を出る気が無い。なら、いっそ手短に終わらせるのが得策だと判断した藍音は、不機嫌さを隠さず問いかける。
「良ければ向こうで話さないか?」
三人掛けのソファに顎を向けたライオットに、藍音は考える間もなく首を横に振った。
「……そうか。ならば、ここでいい」
しょげたライオットはイケメンのせいか妙に色気がある。でも藍音は、見惚れることも罪悪感も持てないでいる。とにかく早く部屋から出て行って欲しい。
「それで、話とは?」
「……あ、ああ。ちょっと……ちょっと待ってくれ」
歯切れ悪く頷いたと思ったら、ライオットは突然横を向いて咳払いをする。なんとなくだけれど、彼はひどく緊張してるようだ。
紙のめくる音を返事にするような男に、緊張などという人間的感情があったなんてと、藍音はちょっと驚いてしまう。
「――失礼した」
「いえ」
机に出したままの帳簿を片付けながら藍音はおざなりに返事をする。しかし次のライオットの言葉には手が止まってしまった。
「私は君のことを随分と過小評価していたようだ。すまなかった。これからは態度を改めるようにする」
――バサッ、バサバサッ。
あまりに驚きすぎて、固まった指先から帳簿が滑り落ちてしまった。
「……は、い?」
「先ほどのヒューイへの対応、とても素晴らしかった。君が何もできない女性だと思っていた自分が酷く恥ずかしい。君は私が出会ったどの女性より優秀だ」
「はぁ」
ライオットはアイネを女主人として認めてくれた。
離縁を宣言した時は、お前になんかできるわけがないと決めつけていたくせに。鼻で笑ったくせに。グロイに命じて帳簿を渡そうとしなかったくせに。
しかし彼は間違っていたことを認め、謝罪した。
これは藍音が寝る間を惜しんで頑張った結果だ。しかし素直には喜べない。
「……わたくし、絶対に部屋から出ないでとお伝えしましたのに」
アイネの言葉遣いでは、怒っているのに拗ねているように聞こえてしまうのが悔しい。でも、ライオットにはちゃんと伝わったようだ。
「すまなかった。あの時は……居ても立っても居られなかった」
「堪え性が無いのは、貴族として致命的だと思いますわ」
「……確かにそうだな。肝に銘じておく」
「そうしてくださいませ」
「ああ」
アイネがやればできる子だとわかったお陰で、今日のライオットはいつになく素直だ。
そんな彼にこの際だから、言っておきたいことがある。
「離縁の件、お忘れではございませんよね?」
「っ……!!」
息を呑んだライオットに、藍音は半目になる。
「ヒューイの不正を暴いたのは貴方との未来の為じゃなく、わたくしだけの未来を考えてのことですので、それをお忘れなく」
勘違いするなと念押しすれば、ライオットは唇を噛んで俯いた。
「……それでも私は君と――」
「はい?」
ボソボソ喋るライオットの声は、執務机に着席する藍音には聞き取れない。
もっと大きな声でと机から身を乗り出して訴えれば、ぐっと拳を握ってライオットは顔を上げた。ありったけの勇気を集めた顔だった。
「私もこの際だから君に伝えておきたいことがある」
「わ、わかりましたわ。ど……どうぞ」
身構えたと同時に、ライオットはなぜか顔を赤くして口を開いた。
「バスルームを覗いたのは、白い結婚を無理矢理に終わらせようとしたかったからじゃない!」
「っ!……!!」
「私は女性を強引に抱いたりするような男ではない!それだけは勘違いしないでくれ!」
噛みつくような勢いで詰め寄られて、藍音は固まった。ただじわじわと頬に熱が集まってくる。
――もうっ!忘れようとしてたのにっ。半分、忘れかけていたのに!!
なんてことを思い出させるのだ。
半裸の自分を見た途端、あちらこちらにぶつかりながら慌てた様子で部屋を出て行くライオットを目にして、あれが故意ではなく過失であることは訊かずともわかっていた。
だから藍音は怒りを覚えなかったし、ああいう事故は総じて何事もなかったように振る舞うのが大人のマナーだと信じて疑わなかった。
なのにこの男、今になって蒸し返すなんて。
これこそ本気で馬鹿と言って罵りたい。でも真っ赤になってしまった自分に、果たしてそんなことを言う権利があるのだろうか。
悩んだ末に出た結論は、小さな声で「はい」と頷くことだけだった。
「わかってもらえたと思って良いのか?」
「……ええ」
「大きな声を出してすまなかった」
「……いえ」
小さな声で返事をしながら、藍音は落ちたままの帳簿を拾い上げる。もう頼むから出て行ってと祈りながら。
しかし祈りは神の元には届かず、ライオットは再び口を開いた。とても硬い声音で。
「それと……年の瀬に王城で夜会がある」
「あら、そうですか」
アイネの記憶を辿り、藍音は軽い気持ちで頷いた。
クルークリン国の王都ラタネに住まう貴族は、王城で年越しをするのがステイタスだ。
新しい年を迎える為の盛大な夜会だから、最高の楽団に極上の料理が用意され、花火も上がる。所謂、元の世界の年越し祭りのようなもの。
慣れ親しんだそれに藍音の心は全く動かない。けれども、
「君をパートナーとして参加したい」
「……え?わたくし??」
「ああ」
「一緒に行くのは愛人ではなくて?わたくしと?」
「何度も言っているが、イレリアーナは私の愛人ではない。そして私が夜会に共に行きたいと願うのは、彼女ではなく君だ。アイネ」
「……っ!!」
これには藍音も驚いた。驚きすぎて、再び帳簿を滑り落としてしまった。
「イレリアーナとの関係において、君に誤解を招いてしまったことは私に非があった。すまなかった。すぐに誤解が解けるとは思っていないが、これからはこの件についても態度を改める」
そう言いながらライオットは藍音が落としてしまった帳簿を拾った。
「あ、あの……わたくしは」
「すぐに決める必要はない。返事は急かさない。少しで良い……頼むから、ほんの少しでいいから考えてくれ。それから答えを聞かせてくれ」
切羽詰まった声と共に帳簿を押し付けられて、藍音は無言のまま受け取ってしまった。
それをライオットはどう受け止めたのかわからない。ただもう一度「頼む」とだけ言い捨てて、部屋を出て行った。
「……ははっ。はっはは……はぁ」
残された藍音は乾いた笑い声を上げる。でも最後は溜息に変わってしまった。




