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『これは経費で精算できません』
経理課に所属していたあの頃、一体何度この台詞を口にしたのだろうか。
最初の頃は、これを言う度に嫌な顔や、情けない声を上げる他部署の連中に対して罪悪感を持った。ごめんなさい、と頭を下げることもしばしばあった。正直、この仕事に向いていないかもと悩んだりもした。
でも、次第に慣れた。気付けば機械のように経費精算書や領収書を突き返すようになって、罪悪感なんて消え失せた。
気付いてしまったのだ。突き返す相手がいつも同じ顔ぶれだということを。そして連中は総じて間違いを指摘しても「だから?」と悪びれた態度を取らない。下手をしたら「それを修正するのがお前の仕事だろ?」とか「なんだよ、ケチ!」と悪態を吐く。
確かに藍音は、カツカツの生活のせいでケチな部類に入る。しかし職場で扱うお金は藍音のものじゃなく会社の資金である。
仕事に対する責任と業務を全うしようとする姿勢ゆえの発言なのだが、どうしてそれに気付かないのだろう。不思議だ。それにこっちだって、わざわざ嫌われる真似なんかしたくない。
これは経理課の女子が皆抱えていた気持ちで、同じフロアにいる総務課の女子達がふわふわと愛らしく見えて、自分達はギスギスしているように見えるのは気のせいだろうかと昼食時に何度も話題に上がった。
結局、答えが出ないまま異世界でまた帳簿とにらめっこする羽目になったので、わからないままだ。
ただ一つわかることは、目の前にいる男――ヒューイが元の世界で毎回毎回、不備だらけの経費精算書をしれっと提出する奴と同じ顔つきをしているということ。
これは気合いを入れて向き合わなければならない。
「それで、過去3年分の帳簿を見直してみましたけれど……こちらは、あなたが管理していたことに間違いはないわよね?ヒューイ」
使途不明金がザクザク出ている帳簿についてどう切り出そうか悩んで、藍音は一先ず本人確認を取ることにした。
「ええ、そうですが?」
案の定、悪びれない態度のヒューイに、藍音の額に青筋が浮かぶ。
「よくこんな帳簿で3年もの間、執事見習いができていたものですわね」
「お言葉を返すようですが、奥様がわたくしを帳簿係にと任命したのをお忘れ無く」
「そうね、忘れてしまいたい事実だけれど」
ああ言えばこう言う。子供みたいに喧嘩腰になりつつある藍音の脇腹を、ジリーが肘で突く。侍女としては如何な態度であるが、お陰で平常心を取り戻すことができた。
「ふふっ、失礼。ちょっと取り乱してしまったわ。確かに貴方の言う通り、帳簿の管理をお願いしたのはわたくしだったわ」
「記憶力はあるようで安心しました」
やっぱ一発なぐろうか。
煽りまくるヒューイに、藍音は一番分厚い帳簿に手を伸ばす。しかし今回もまたジリーに止められた。
「そうね、わたくしも人並みに記憶力があるということが証明できて何よりだわ。ところで大口叩いた貴方は、もちろんわたくしより記憶力はおありですわよね?」
「ふっ、もちろんでございます」
鼻で笑って答えたヒューイを見て、藍音は心の中でガッツポーズを取る。やっと反撃できそうだ。
「では、わたくしから幾つか質問があるので、一つ一つお答えくださいな」
「えー困りますよ。僕だって忙しいのに、そう無駄な時間は取れないんですけ――」
「おだまりなさい」
トンッと藍音が人差し指で机を叩いた途端、ヒューイは押し黙った。
それもそのはず。今、アイネの中にいるのは、泣き虫で引きこもりの若奥様ではない。長年経理畑で揉まれたアラサー女子だ。年下の舐めた態度を取る男を黙らせるくらいの眼力はある。
「まずは、2年前の帳簿からいくわ。貴方に帳簿を任せてすぐに宝石を6個購入と記載されているけれど、現物が見当たらないわ。保管先を明確に教えて。次に同じ月に科目が空白の使用金が5か所あるけれど、これは何に使ったの?あとその翌月に、ドレスを3着、靴を15足と記載されているけれど、宝石と同様に現物が見当たらないから、これも保管先を――」
「ちょ、ちょっと待ってください」
淀みない口調で帳簿を指摘し始めた藍音に、ヒューイは顔色を無くす。
「奥様、そんな一気に言われても困ります。それに2年前のことなんて覚えてるわけ」
「ないとは言わせないわ」
にっこりと微笑みながら藍音がヒューイの言葉を遮れば、彼はグッと唇を噛んだ。これ以上ないほど悔しそうに。
ざまあみろと、藍音は心の中で意地悪く笑う。ついさっき自信満々に記憶力があると断言してしまった手前、言い返すことなどできないだろう。
とはいえ知らぬ存ぜぬで白を切られては困るので、ここはこちらが折れてあげることにする。
「ふふっ、ヒューイったら。そんな泣きそうな顔をなさらないで。貴方が有能な人材だとしても、沢山のお仕事を抱えていては、こんな昔のこと忘れてしまうのも仕方がないわ」
「……奥様」
「だから、ね」
「……はい」
「直近の、今年の帳簿なら忙しい貴方もさすがに忘れてはいないでしょ?」
そう言って藍音は、わざと大きな音を立てて今年の屋敷の経費帳簿を机の上に置いた。
すぐさまヒューイが声にならない悲鳴をあげる。もちろんそんなの無視だ、無視。
「じゃあ、まずは年始から最近までヒルイン工房から宝石を37個購入してるようだけれど、わたくしの元には一つも届いておりません。理由を説明して。同じく帳簿に科目欄が空白の金額が62箇所あるから、その説明も。あと毎月繰り越しされる金額が、前月の金額より少額になっているのはどうしてかしら?最後にわたくし名義でドレス、靴、帽子、雑貨等で計92点の商品が購入されているけれど、それについても説明を」
息継ぎ無しで言い切った藍音は、最後に「言い逃れはできないよ」とヒルイン工房から持ち逃げしたリストをヒラヒラと振って見せる。
「それは……その……なんと言えば良いのか……」
「あら、ヒューイ。そんなに緊張なさらないで。貴方の言葉で説明してくだされば良いのよ」
慈愛のこもった笑みすら浮かべる藍音とは対照的に、ヒューイは今にも死にそうな顔をしている。
しかしヒューイの口から出た言葉は、謝罪でも苦し紛れの言い訳でもなかった。
「奥様……ひどいですよ。僕を虐めてそんなに楽しいですか?」
「っ……え?」
めそめそ。しくしく。
しゃっくりを上げながら泣き始めたヒューイを目にして、藍音は唖然とする。
「そりゃあ、僕はまだ見習いの執事で数字は弱いです。そのことは認めます。だからと言って、頑張っても結果が出せない人間を追い詰めるのは……非道ですよ!」
「え?ちょっ……ちょっと何を仰っているの」
「僕、人間不信になりそうです!!こんな陰湿な嫌がらせをするなんて奥様は性格が悪いですよ。そんな風だからイレリアーナ様に――」
は?イレリアーナが、なんだって??
罵倒されたことより、ここで彼女の名が出たことに藍音の眉がピクリと跳ねる。そのとき、ドカンとものすごい破裂音が寝室から響いた。
部屋にいる藍音、ジリー、ヒューイの三人は、同時にそこに目を向ける。そしてすぐさま、そこから目を逸らした。
寝室に続く扉には、あまりに恐ろしいものがいたから。
「黙って聞いていれば……貴様、覚悟はできているんだろうな」
地獄の番人ですら裸足で逃げたくなるような恐ろしい形相でそう言ったのは、アイネの夫ライオットだった。




