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本日はライオット視点です(/・ω・)/
すげなく断られるのを承知の上で、バスルームの扉をノックしたライオットは、まさか半裸の妻が姿を現すなんて想像すらしていなかった。
目の前の光景が信じられなくて、ライオットは呆然と立ち尽くす。妻のアイネも合わせ鏡のように目を見開いたまま動かない。
チクタクと壁時計が時を刻む。
最初に我に返ったのは、ライオットの方だった。
「す、すまない!」
慌ててアイネの身体から目を逸らす。声色が自分でも笑ってしまうほど取り乱しているのがわかっているが、どうすることもできない。
そしてそのままライオットは、テーブルの角や椅子の脚に身体をぶつけながら転がるように廊下へと飛び出した。
片手で口元を覆いながら廊下を歩くライオットの足取りは、まるで病人のようにおぼつかない。
顔もきっと真っ赤になっているだろう。もし主治医が自分のこの姿を見たら問答無用で、ベッドに押し込まれるに違いない。
そんな風に客観的に思う自分はいることはいるのだが、だからといってすぐに冷静さを取り戻すことは不可能だ。
「……私の妻は……あんなにも奇麗だったのか」
藍音が聞いたらそれこそ呆れ果てて言葉を失うような台詞を吐いたライオットは、これまでずっとアイネを亡き妹の姿と重ね合わせていた。
名門貴族であるレブロン家は王の信頼が厚く、永久の繁栄を約束されている。
おそらくクリークルン国の民は、口をそろえて「そうだ」と言うだろう。
確かにレブロン家は長い歴史を持ち、国王陛下の家臣として忠実に仕えてきた。しかしその実態は、単なる飼い犬に過ぎない。
代々レブロン家の当主は、国王から直々に命じられ秘密裏で公にできない案件を処理してきた。無論、その中には汚れ仕事もあれば、血生臭いものもある。
そしてどこの貴族よりも広大な領地を与えられているのは首輪のようなもの。少しでも疑わしい素振りを見せたら、国王は迷わず一族郎党及び領民の首を刎ねるであろう。
そんな死と隣り合わせの家門に祖父同士の約束で嫁がされた妻に、ライオットは心底同情した。でも、冷遇するつもりはまったくなかった。
むしろライオットは一目見た時から、幼い頃に死に別れた妹に良く似たアイネに好感を抱いていた。
ただもはや洗っても落ちないほどに汚れてしまった手で、アイネに触れることがどうしてもできなかった。
それにライオットは近い将来、人の道を踏み外す予定だ。今、別邸で過ごしているイレリアーナを亡き者にしようと考えている。
亡き妹シャロテ・レブロンは今を去ること12年前、王族達と家族ぐるみで湖畔の船遊びをしていたところ、誤って転落し水死した。しかしそれは上書きされた事実であり、真実は違う。
イレリアーナに突き落とされ、殺されたのだ。
当時、事件現場にはライオットの家族を始め王族達もおり、イレリアーナがシャロテを船から突き飛ばしたところを複数人が目撃している。しかしシャロテは事故死と処理された。
『儂は国王の前に、一人の親だ。どうかわかってくれ』
そう言って国王から肩を叩かれたライオットの父は悔し涙を流し、ライオットの母は心を病んだ。
数年経っても心の傷は癒えることなく、ライオットの母は領地で療養生活を余儀なくされ、父はそんな妻に寄り添うため早々にライオットに当主の座を譲った。
この悲しい過去の出来事をアイネは知らない。レブロン家の長女の話は社交界ではタブーとされてきたから、もしかしたら妹の存在すら知らないかもしれない。
それでいいとライオットは思うし、全てを伝える気も無い。
自分の妹を殺害したイレリアーナを傍に置いているのは監視と復讐のためだと知ったら、か弱く繊細な妻はどれほどに心を痛めるだろう。
そして、そんな危険な人物が近くにいるとわかったら、恐ろしくて眠ることすらできないに決まっている。わざわざ彼女に辛い思いなどさせたくなんかない。
ライオットは、ただただアイネにこの屋敷で静かに過ごしてもらえれば満足だと思っている。
清らかな彼女を汚さないために一生触れることはしないと誓った代償に、どれだけ浪費しても構わない。愛を育む必要もないし、女主人として力量も求めていない。世継ぎだって不要だ。こんな家門などいっそ潰れてしまえば良い。
……と、思っていたのは二ヶ月くらい前まで。
ここ最近では、自分の考えは間違っているのかもとライオットは思い始めている。
きっかけは妻が突然、離縁すると言い出した日。月に一度の食事会を見事に無視されたと思ったら、執務室に押しかけ一方的な離縁を言い渡された。
白い結婚を貫いている自分に何も言える権利はないとわかっていても、どうしてそんな決断を下す前に、不満をぶつけてくれなかったのだろうと大人げなく腹を立ててしまった。
今更何を言っても言い訳に過ぎないが、あの時は誓って怖がらせる気も、蔑ろにするつもりもなかった。ただ混乱して上手く彼女の話を聞けなかったことは悔やまれる。
その後、なんとか離縁は免れた。ただ、彼女は女主人の仕事をやると言い出す始末。
正直、売り言葉に買い言葉で好きにすれば良いと許可を出したが、グロイからひと月以上、慣れない帳簿に悪戦苦闘していると報告を受けてしまった。
――もう、意地を張るのはやめなさい。君はここで過ごすだけで良いのだから。
引っ込みのつかない妻にそう言って、この無意味な争いは終わりにしようとライオットはアイネの部屋を訪ねた。
しかし何度ノックをしても返事は無い。もしかして過労で倒れてしまったのかと不安がよぎり、無断で部屋に入ってしまった。
がらんとした部屋の奥の扉から妻の声が聞こえてきて、ライオットは気付いたら扉をノックしていた。
そこで半裸の妻を見て、とても驚いた。
これまでずっと亡き妹の姿を重ね合わせていたけれど、そこにいたのは美しい曲線を描く一人の女性だった。
水滴が残っている肌は陶器のように滑らかで、まるで油を塗ったかのように水を弾いていた。
淡い桃色の髪を高く結い上げているせいで、ほっそりとした首がやけに官能的でライオットは状況も忘れその姿に見入ってしまった。
紳士として恥ずべき行為であったと認めるし、申し訳なかったと思っている。
そんなふうに長い長い回想を終えたライオットは、目に付いた柱に身体を預け額に手を当てる。今日はもう間違いなく、仕事にならない。
いっそ冷たい水でも頭から被って、いつまで経っても冷めない熱を下げようか。
額に手を当てたまま、ライオットが本気で実行しようと思ったその時、誰かが自分の名を呼びながら上着の裾を引っ張った。
聞き覚えのある可憐な声に我知らず身体が強張る。
「な、なんだ」
どうにか平常心を装って手を額から外して視線を声の方に向ければ、きちんとガウンを着たアイネがいた。心臓に悪い。
小さく息を呑んだ自分に、妻は困った顔をする。しかし意を決したような顔をすると、いきなり背伸びをして自分の耳元に唇を寄せた。
「……旦那様、あとでわたくしの部屋に来てください。お願いです」
甘い囁きに、ライオットは眩暈を覚える。
きちんと返事ができたかどうかはわからないが、妻は言い終えるとすぐに背を向け走り去ってしまった。
ライオットはしばらくそこから動けなかった。




