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両手でドレスの裾を掴んで、急所を押さえて蹲る黒髪男を跨ぐ。
ちょうど片手を付いて半身を起こしたジリーの腕を掴んで強引に立たせる。
「走りましょう!」
「は、はいっ」
大体の状況を把握しているジリーは、黒髪男に侮蔑の視線を一度だけ送ると、藍音と共に大通りまで全力疾走した。
王都の中心にある時計台まで走りつづけた藍音とジリーは、互いの身体を支え合いながら目に付いたベンチに座る。
はぁはぁ。ぜいぜい。
息が上がって、肺が苦しい。どれだけ酸素を取り入れても、荒い息はなかなか治まらない。
陽はすっかり西に傾いており、風がビュンビュンと冷たい。
行きかう人々は肩で息をする藍音とジリーをチラ見するが、訝しむ様子もなく流れていく。
「撒けたよう……ね」
「はい。もう大丈夫でしょう」
息が整わないまま周囲を鋭い視線で観察していたジリーは、藍音を安心させるように少しだけ微笑んでくれた。
「そっか……良かったわ……――って、良くはない!!」
急に大声を出した藍音に、ジリーは目を丸くする。
しかし藍音はそれどころじゃない。この世の終わりのような表情を浮かべたかと思えば、両手で顔を覆って項垂れた。
――ど、ど、ど、ど……どうしようっ。アイネの身体で男の急所を蹴り上げるなんて!私ったら、なんてことを!!
あの時はそうする以外方法はなかった……と、思う。しかし我に返ってみると、やらかしてしまった感が半端ない。
「奥様、この姿勢で聞いていただきたいことがございます」
「……ん、なあに?」
指の隙間からそっとジリーを覗いたら、彼女は茜色の空をじっと見つめていた。
「実は私、3年前にヒルイン工房にいたロッドと婚約しておりました」
「っ……!?」
「もともとロッドは父の弟子でした。物覚えは良い方ではありませんでしたが、外面だけは良く取引先からも可愛がられており、父は己の手で育てた弟子と私の縁談を勝手にまとめてしまったのです。私としては、かなり不満はありました。ですがこの人と絶対に結ばれたいと切望する相手もおりませんでしたし、中途半端な商家の娘という立場ならこういう結婚も仕方がないと諦め、縁談を受け入れました。ま、破談になりましたけど」
「どうしてって伺っても……よろしいかしら?」
恐る恐る尋ねたら、ジリーはこれまでで一番大きな笑みを浮かべて頷いてくれた。
「破談になった原因は、ロッドが式も挙げていないのに私に不埒なことをしようとしたからです。彼曰く、もう女遊びができなくなったから、お前が慰めろ。それが婚約者の責務だと言って、まぁ……襲い掛かってきたのです」
「最……低ですわ」
「ええ。救いようがないほど、最低最悪の男です。ですから私は、二度と彼が女性を冒涜しないよう……まぁ、アレを潰しておきました」
「っ!!」
両手で顔を覆うことも忘れぎょっとした藍音に、ジリーは片方の唇を持ち上げる。
唐突に始まったジリーの身の上話は、つまるところ自分を慰めるために語ってくれたもの。それに気付いた藍音は、ジリーの腕に自分の腕を絡める。
「わたくしが国王陛下だったら、間違いなく貴女に100万個の勲章を授けたわ」
「そのお言葉だけで十分でございます。結果として全てを知った父は婚約を破棄して、口さがない者から護る為に私をレブロン家へ行儀見習いとして送り出しました。……今、これで良かったとしみじみと思えます」
はにかみながらそう言ってくれたのは、自惚れて良いなら自分と出会えたから?
そう訊きたいけれど訊けない藍音は、こてんとジリーの肩に頭を乗せる。
「わたくし達は急所蹴り仲間なのね」
「……奥様からそんな言葉が出るとは、ジリーは想像すらしておりませんでした」
「ふふっ、わたくしも同じよ」
ごく自然に目が合って互いに微笑み合う。
ちょうどその時、一向に馬車に戻ってこない藍音達を探し周っていた御者が姿を現した。
*
王都で聞き込み調査をしたり、痴漢を撃退したり、侍女と親交を深めたりした翌日、寒さが一気に増し、レブロン邸は昼夜問わず暖炉に薪が入るようになった。
パチパチと薪がはぜる音を聞きながら3日間、藍音達は一心不乱に帳簿の再確認を進めた。そして4日目の朝、抜き打ち監査の準備が全て整った。
数日前まで乱雑だった部屋は片付けられ、今はピカピカの執務室。監査は質疑応答が主になるので、藍音の机には調査表と不正リストが積み上げられている。
「これでとことんヒューイを追い詰めることができるわ。ありがとう、ジリー」
「とんでもございません。全ては奥様のお力です」
謙虚なことを言うジリーに苦笑するけれど、以前感じていた寂しさはだいぶ減った。
「ところで奥様、ヒューイ殿には昼過ぎにここに来るよう伝えてありますので、その前に軽食を召し上がってくださいませ」
目で執務机からソファに移動しろと訴えるジリーに、藍音は笑って首を横に振る。
「もちろん食事はいただくけれど、ごめんなさい……その前にお湯を浴びても良いかしら?」
不正の証拠は新鮮さが命。時間が経てば、聞き込みをした店側がヒューイに余計な情報を与える可能性がある。
それを防ぐ為にとにかく急いだ結果、一番不要な身だしなみを整えることを後回しにしてしまっていた。
さすがにこれでは人前に出るのは恥ずかしい。
その気持ちは言葉にしなくてもジリーはすぐに理解してくれたようで、素早く湯浴みの準備をしてくれた。
身体の芯まで温まる最高の湯加減に、甘い香りを放つオレンジ色の花びら。バスタブはお約束通りの猫足で、両足が伸ばせるロングサイズ。
リゾートホテルのようなバスタイムを満喫する藍音は、世話をしたがるジリーをバスルームから追い出したので一人っきり。
ついつい「あっあーふぅーいい湯だねぇー」と、おじさんみたいなことを言ってしまう。
そんな自分に呆れ笑いをしてしまうが、これまで頑張ったご褒美としてちょっとくらいは素に戻っても良いだろうと判断する。
「昼間のお風呂って、ほんっと……最高。はぁー」
結婚してから家事と仕事に追われて、ゆっくりお風呂に入る時間なんてなかった。湯船で寝かけて、溺れそうになったことは何度もあったけれど。
過去のがむしゃらだった自分を思い出して藍音は溜息を吐く。その時、コンコンとバスルームの扉を叩く音が響いた。
きっと長湯を心配したジリーが様子を窺いに来たのだろう。そんな風に思って、湯船から出た藍音はバスローブを適当に羽織って扉を開けた。
「ジリー、今出たところだから昼食は――っ!?」
扉の前に居たのはジリーではなかった。
想像すらしていなかった人物が視界に入ったことがあまりにも衝撃で、瞬きすらできなかった。はだけたバスローブの身頃をかき合わせることさえも。
扉の前に立っていたのは、ライオットだった。




