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「そう。そうだったのね……言いにくいことを話してくれてありがとう」
きっとアイネだったら泣き崩れるかもしれないが、藍音はさほど苛立ちとか怒りは覚えていない。
だから微笑むこともできるし、ジリーに礼を伝えることもできる。ただ、気になる点はある。
「ところでジリーは、どのタイミングでヒューイとイレリアーナ殿下が繋がっていることに気付いたの?あ、もしかして、わたくしが知らないだけで屋敷内では周知の事実だったりするのかしら?」
率直に問うてみれば、ジリーの表情は今にも雨が降り出しそうなほど曇ってしまった。
「とても言いにくいことではございますが……」
「あら、今更じゃない。遠慮せずに何でも仰ってくださいな」
俯いてしまったジリーの肩を軽く叩けば、ジリーは覚悟を決めたようにバッと顔を上げた。勢いがちょっと強すぎて、気圧された藍音は二歩後退する。
「あの晩……イレリアーナ様が私の手に毒を握らせた際に、囁いたのです。“これで貴女もヒューイと同じ私の飼い犬ね”と」
「っ……!!」
あまりの事実に息を呑んだ藍音に、ジリーは更に言葉を重ねる。
「奥様が寛大にも私をお許しいただいた後、ヒューイが付けてる帳簿に不正があることが発覚し……私なりに彼の動向を探っておりました。その際に、彼の性格とかずる賢い面を知り、お伝えした次第です。おそらく屋敷の使用人達は、ヒューイ殿がいけ好かない奴だとは思ってますが、悪事に手を染めていることは気付いてないでしょう」
「そう。え……ちょっと待ってください。調べていただけたのはとても有難いと思っているわ。でも貴女、帳簿の確認だけでも大変だったのに、身体は大丈夫なの!?」
「お気遣いありがとうございます。ですが部屋に閉じこもってばかりの奥様と違い、私は体力には自信がありますからご安心くださいませ」
「そ、そう」
最終的に苦笑でジリーの話を聞き終えてしまったけれど、一体どうやってこの感謝の気持ちを伝えれば良いのだろうか。
ライオットはイレリアーナは愛人じゃないの一点張りで、呆れるほど頑なに己の不貞行為を認めなかった。
しかし、イレリアーナがライオットの愛人ではなく訳ありの食客だとしても、使用人を手駒にしてレブロン家の財を不正に使用するのは立派な犯罪行為だ。
――上手くいけば、このネタでヒューイとイレリアーナの両方を潰すことができる!!
これはあくまで個人的な感情だが、藍音は「今宵、華になるのは唯一人」のネット小説を読んでいた頃からイレリアーナというキャラが好きでは無かった。
自己顕示欲が強くて、絶対に謝らない。己の立場が不利になれば平気で見え透いた嘘を吐いた挙句、ヒステリックに喚いてその場を逃げ切ろうとする。
そんな性格の彼女がなんとなく斜め向かいに座るお局様の姿と被ってしまうこともあり、彼女が登場するシーンではテンション低めで文字を追っていた。
無論、今はアイネの立場になって行動すべきだ。しかしアイネの記憶をどれだけ探っても、イレリアーナに好意を向けたり、向けられた記憶はない。なら、全会一致で可決ということで。
「ジリー、貴女が調べてくださったことは例えようのないほど素晴らしいものだわ。事前に教えてくださってありがとう。あと、貴女のお父様の敵討ちはこのわたくしに任せてくださいな」
「奥様、恐れながら父はまだ死んでおりません。ピンピンしております」
生真面目に言いつつも、ジリーは藍音が言いたいことをちゃんと理解しているようで、後れ毛を気にして、うなじに手を伸ばしてくれる。
なんだが今日一番、達成感を覚えてしまう。
「では少し名残惜しいけれど、屋敷に戻りましょうか。全部片付いたら、また王都の街の散策をご一緒してくださる?」
「はい、もちろんでございます」
「ふふっ、楽しみ――……っ!?」
即答してくれたジリーと微笑み合って馬車まで戻ろうと身体を反転させたその時、無遠慮に腕を掴まれた。次いで、勢いよく壁に背を押し付けられる。
「おや、これはこれは。レブロン家の奥様ではございませんか」
耳に流し込むように囁かれたその声は、低く妙に色気のある男性のものだった。
「っ……!!」
驚きと恐怖で声が出せない藍音は、弾かれるように男を見る。
最初は元の世界で馴染みのある艶やかな黒髪に目が奪われ、次いで吸い込まれそうな深い青色の瞳に目が釘付けになる。
すっと通った鼻筋と意思が強そうな眉。藍音を余裕で壁に追い込めるほどの長身の男は、おそらくライオットとそう歳は変わらない見目麗しい青年だった。
「おや、私の顔をお忘れで?奥様」
まじまじと顔を見てしまったのが災いした。どうやらアイネとこの男は知り合いのようだ。しかしアイネの記憶には黒髪男の姿は影すら映らない。
「わたくし、こんな無礼を働くような者など存じ上げませんわ」
「へぇ、言ってくれますね」
何が面白いのかわからないが喉を鳴らして低く笑う黒髪男は随分な真似をしてくれているのに、やけに品が良い。
良く見ればマントの中の衣装は無駄に豪華だから、この男が名のある貴族であることは間違いないだろう。
でも一読者という立場で過去のストーリーを辿っても名前すら思い出せない現状に、藍音は心の中で舌打ちしながらジリーの姿を探す。
藍音が腕を掴まれる直前に、黒髪男に突き飛ばされてしまったのだろう。随分向こうに転がっていた。だが貴重なヒルイン工房のリストは、しっかりその胸に抱いてくれている。
今すぐにでも苦しそうに呻くジリーの元に駆け寄りたい。しかし無礼な黒髪男は藍音の腕を掴んだまま離してくれない。
「失礼ですが、これが紳士が取る態度ですか?今すぐ、手を離してくださいませ」
強く睨んで身体を捩れば、黒髪男は面白くなさそうに鼻を鳴らして、更に強く腕を掴んだ。ギシッと細い腕から嫌な音がするし、かなり痛い。
貴族夫人として接していた藍音でも、これにはさすがに堪忍袋の緒が切れた。
――ちょっと、アイネの腕に痕が残っちゃうでしょ!!
この桜の妖精のような身体は借りものだ。傷一つ付けちゃいけない。
そんな責任感から、藍音は一度目の生の職場で受けた痴漢対処法講習の一つ【急所蹴り】を実践することにした。
「悪く思わないでくださいまっ――せ!!」
一応断りを入れた藍音は、思いっきり膝を持ち上げた。
迷いなく上がった膝は、見事急所にクリーンヒットし、黒髪男は声にならない悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。




