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 藍音は溜息を一つ吐くことで気持ちを切り替えて口を開いた。


「お忙しいようですので、用件だけお伝えしますわ」


 藍音の言葉を追うように、パサリと書類をめくる音が響く。陰湿な拒絶を受けたところで、アラサー女子の藍音の心は折れたりはしない。


「わたくし、貴方と離縁します」


 大抵の男はこの台詞を言えば多少は動揺するものだが、今回もまた返って来たのはパサリと乾いた紙の音だけ。


「無言は肯定と受け止めます。旦那様、文句はありませんよね?まぁ……そもそも、わたくし達は正式な夫婦じゃないですから、離縁の手続きも比較的簡単に終わると思いますし」


 この世界では結婚式を挙げただけでは正式な夫婦と認められない。初夜を終えて、ようやく一人前の夫婦と認められる。


 それまでの間は“白い結婚”と呼ばれ、妻から離縁を切り出すことができる。


 16歳でライオットの妻になったアイネは未だに清い身体のままだ。それ即ち夫の務めを果たしていないライオットは嫌と言う権利は無い。


 ということを言葉ではなくニュアンスで伝えた藍音は微笑んでみせる。どうせまたパサリ返事が来ると思いきや、がっつり目が合った。


「何を言い出すかと思えばくだらないことを」

「は?」

「言いたいことはそれだけか?なら早々に部屋を出て行ってくれたまえ。忙しいんだ」

「は?」

「聞こえなかったのか?早く出て行ってくれ」

「はあ?」


 あまりの発言に間抜けな声を出せば、ライオットは冷たい視線を一度だけ投げつけて、再び書類に目を落とした。


 妻が離縁を切り出したというのに眉一つ動かさない夫を見て、藍音は眩暈にも似た虚無感を覚える。忌々しいことに、この感覚にデジャブを覚えてしまった。


 ――この人、アイネのことをとことん見下しているんだ。アイツと同じように。


 藍音は、元の世界では新婚2年目のまだフレッシュさが残る28歳の人妻だった。


 友人の紹介で知り合った智哉と交際1年でプロポーズされゴールイン。残念ながら式は職場の繁忙期と重なったせいで先延ばしにして、入籍だけ済ませたけれど、互いの親族を招いてささやかな食事会をした。


 おめでとう、幸せにね。ありきたりな祝福の言葉を受けた藍音と智哉は、その言葉一つ一つに対して笑顔を振りまいた。


 それから特にトラブルに見舞われることなく新居のマンションに引っ越して、家具家電も新品にして。絵にかいたような新婚生活が始まった矢先、夫の智哉は藍音に一言も相談せず会社を辞めて、小説家になると宣言した。


 小学生の頃から野球一筋の彼は、活字を見ると眠くなる絵に描いた脳筋のはずなのに。どう考えてもその場しのぎの言い訳に過ぎない。


 藍音が危惧した通り、無職になった智哉は小説家になるべく努力することは無かった。情報収集と称してネットゲームにハマり、その仲間とオフ会という名の飲み会に繰り出す始末。


 挙句の果てには禁断の課金にまで手を出し、都築家の家計は逼迫した。


 加えて一日中家にいる智哉は家事に非協力的で、働いても働いても生活は楽にならない。そんな日々が続けば、当然、負のスパイラルに陥る。


 誰にも言えない家庭事情に強いストレスを抱えて藍音は些細なことでイライラして、智哉と衝突する日々が続いた。


 張りつめていた糸がプツンと切れたのは、幸せとは真逆の生活がデフォルトになった頃。


 智哉が知らない女性と歩いているところを見かけてしまったのがきっかけだった。とうとう藍音の頭に「離婚」の二文字が浮かぶようになってしまった。


 今の世の中、三組に一組が離婚している。そんな現状で自分はよく頑張った。もういいじゃん、私。と、自分自身に語りかける藍音は、身も心も限界に達していた。


 とはいえ結局、離婚届を提出するまでには至らなかった。する前に朦朧とした意識の中、帰宅途中にトラックに撥ねられ、あっけなく人生の幕が閉じたから。


 ……なぁーんていう馬鹿みたいな人生を思い出してみると、衝突したと思っていたあれは喧嘩じゃなかったことに気づく。こっちが一方的に不満をぶつけるだけの虚しい時間だった。


 これから先のこと、今後どうしていきたいのか、そんな話を持ち掛ける度に智哉はこの時間が一刻も早く終われば良いのにって顔をして、ぜんぜん耳を傾けることはしてくれなかった。


 それがとても悔しくって腹が立って、最後は感情的になって一方的にまくし立てて、結局は何の解決にも至らないまま……の繰り返しだった。


 その度にどうして話し合ってくれないんだろうと藍音は頭を抱えた。時には、智哉はもう自分のことなんか嫌いになっちゃったのかなって一人むせび泣いた。


 でも、こうして客観的に同じ状況に遭遇すると、あの時見えなかったものが見えてくる。


 夫ライオットは、妻アイネにとことん関心がない。感情を持つ一人の人間として認識していない。だから今もこうして涼しい顔で書類に目を通すことができるのだ。


 ――あっそ。あんたがその態度でいるなら、こっちだって考えがあるわ。


 見た目は薄幸美女だけれど、中身は長年経理畑でもみに揉まれたアラサー女子である。


「失礼」


 言うが早いか藍音はライオットが手に持っていた書類を取り上げた。次いでそれを乱暴に机に叩きつける。


 風圧で額から流れているライオットの前髪がふわりと揺れた。

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