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 なんで帳簿を付けるのか。


 藍音が生きていた世界では、帳簿付けは法で定められた会社の義務だった。じゃあアイネが生きてきた世界で、帳簿付けが義務じゃないなら適当で良いのかとなるとそうではない。


 帳簿を付ける理由は、義務か義務じゃないとかという以前に、正しくお金の流れを把握するために必要なもの。言い換えるなら、滅茶苦茶な帳簿付けをしている場合、酷い財政難になっている場合がある。


 グロイが運んで来た屋敷内の経費帳簿は、それはそれは悲惨な状態だった。


 帳簿というと聞きなれない者は身構えてしまうが、要は“お小遣い帳”の上級版。


 自分の手元にある全部のお小遣いが“資産”と呼ばれ【借方】となり、帳簿では左側に記入する。反対に趣味や娯楽で使ったお金と残りのお金が【貸方】となり右側に記入。最終的に【借方()】の合計と【貸方()】の合計が同じになれば、帳簿は正しく記入されていることになる。


 しかし今、藍音が手にしている帳簿は、貸方に借方の金額が書かれていたり、残高の計算ミスが目立つ。目をつぶって書かない限り、こうはならないだろう。


「ねえ、ジリー。レブロン家の財務状況……大丈夫かしら」

「それは大丈夫でしょう。屋敷外の領地や鉱山の管理はご主人様が直接されておりますので」


 帳簿から目を離して恐る恐るジリーに問い掛ければ、即座に力強い声で返事をもらえた。しかし、イマイチ安心できない。


 そんな気持ちが顔に出てしまったのだろうか。ジリーは溜息を吐く藍音に早口で付け加える。


「ご主人は国立アカデミーを首席でご卒業されておりますし、王の信頼も厚いと聞き及んでおります」

「へえ……いえ。あら、そう」


 ライオットが外面だけは良いことを知っている藍音は、つい冷めた口調になってしまう。


 そんな藍音を見て、ジリーはこてんと首を横に倒した。


「あのぅ。今お伝えしたことは、以前に奥様が仰っていたことですが」

「っ!……!?」


 しまった。余計なことを口走ってしまった。


「そうね、そうだったわ……ただ、こんな帳簿を見てしまうとちょっと不安になって……ねぇ?」


 もはや帳簿と言えないただの雑記帳を持ち上げて軽く振ってみせれば、ジリーは確かにと深く頷いてくれた。


 ――あっぶなかったぁ。


 藍音がアイネになって、まだ数時間。アイネの記憶はそっくりそのまま受け継いだようだけれど、まだ全部を把握できていないのだ。


 それに自分の記憶だってある。二人分の記憶をごちゃ混ぜにしないように整理するためには時間が必要だ。でも、他人のプライバシーを覗き見するようで気が進まない。しかしやらなければ、いつかとんでもない大ミスをしてしまう気がする。


 帳簿に顎を乗せてしばし悩んだ藍音は、不本意ではあるがライオットと離縁するために必要なリストに書き加えることにした。 


 とはいっても、目の前の危機は回避できたが、問題は何一つ解決していない。


「一先ずグロイをここに呼んで、帳簿の付け方について問いただすしかないわね」

「……え?奥様、こちらの屋敷内の経費帳簿を管理しているのは、グロイ殿ではございませんよ?」

「嘘……!」

「嘘ではございません」


 淡々と告げたジリーから目を逸らして、藍音はアイネの記憶を探る。


「痛っ」


 こめかみに鋭い痛みを覚えると共に、モノクロのアイネの記憶が頭の中になだれ込んできた。





 古い洋画を見ているようなこの光景に見覚えがある。アイネの私室だ。配置されている家具のどれもが手入れをしている輝きではなく、真新しい光を放っている。


 ああ、これはアイネが嫁いですぐの記憶だ。藍音が気付いたその時、視界に燕尾服を着た青年が映り込んだ。


 青年は栗色の髪に、焦げ茶色の神経質そうな細い目をしている。年の頃は20代前半か。グロイと同じデザインの燕尾服を着ているけれど、着られている感がある。


『こんなこともできずに恥ずかしくないんですか?奥様』


 意地の悪いキツネみたいな笑みを浮かべた青年は、机の上で帳簿を広げるアイネにそう言った。


 すぐにアイネは蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と呟く。悔しさと不甲斐なさを感じで、こちらの胸が痛い。


 なのに青年の焦げ茶色の瞳は愉快そうな色を湛えている。そして青年は薄い唇を意地悪く歪めながら、大袈裟に肩をすくめた。


『謝るくらいなら、いっそ何もしないでくださいよ。あーあ、僕だって忙しいんですよ。奥様の面倒ばっかり見てるから、過労で倒れそうだ』


 青年が言い終えたと同時に、視界がぼやける。おそらくアイネが泣いているのだろう。


『やめてくださいよ、奥様。なんだか僕が虐めてるみたいじゃないですか』


 いや、ガッツリ虐めてるよと言ってやりたいけれど、これは過去の出来事で藍音は干渉することができない。モノクロ映画を観るように、無情に場面が流れていく。


『ま、とりあえず、これからは僕が帳簿付けをやってあげますよ。奥様は僕が付けたヤツをただ目を通してくれればいいですから。じゃ、そういうことで』


 言うが早いか帳簿を取り上げる青年に、アイネは「待って」と立ち上がり手を伸ばす。しかし青年は一度、侮蔑を込めた視線をよこしただけで部屋を出て行った。


 それからアイネはずっと帳簿を待ち続けた。しかし幾日幾月と時は流れても、燕尾服の青年は一向に帳簿を持ってくる気配は無かった。





「――奥様、大丈夫ですか?少しお休みになられますか?」


 こめかみを押さえて微動だにしない藍音に、ジリーは気遣いの言葉をかける。


「ねえ、ジリー」  

「はい」

「この帳簿を付けたのってグロイじゃなくって、栗色髪のクソ……じゃなくって、栗色髪の青年の……えっと名前は」

「執事見習いのヒューイ殿のことでございますか?」

「そう。名前はヒューイね……ヒューイ、ヒューイ」


 ライオットの次に吠え面かかせてやるリストにその名を刻み込んだ藍音は、両頬をパンッと叩いた。


「よっし、やってやりますか」

「え?奥様、お休みになられるのでは……」

「まさか。やらないといけないことが山積みになったもの。おちおち休んでなんかいられないわ」


 ライオットとの離縁準備はちょっとだけ後回し。まずは小物(ヒューイ)に制裁を下すことに決めた。


 そんな決意を表すように、ニッと口の端を持ち上げて笑った藍音を見て、ジリーは何か言いたげに口をもごもご動かす。しかし口から出た言葉は全く違うものだった。


「かしこまりました。では奥様、私は何をすれば良いでしょう?何なりとお申し付けくださいませ」


 慇懃に腰を折ったジリーは、本当によく出来た侍女だ。そんな侍女に甘えて、藍音は早速いろいろお願い事をした。


 まずは社内監査ならぬ、屋敷内監査だ。

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