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迷子にならずに戻ってくると、私室に変化があった。
「……模様替えした?」
アイネはライオットのお飾り妻。引きこもっているし女主人としての責務も果たしてはいないけれど、二間続きの部屋を与えられている。
とはいえ、今は屋敷を取りまとめるアレコレは全てグロイが代理で行っているので、執務をするための部室はくつろぐための空間と化している。
なのに小一時間程部屋を留守にして戻ってみれば、見た目重視の小さな文机は片付けられ、使い勝手に重きを置かれた大きな執務机が、どどんと鎮座している。
あと机の横には無骨な本棚もある。おそらく帳簿を並べるためのものだろう。
――なんか、懐かしいなぁ。
一度目の生で長年務めていたオフィスの配置にそっくりで、藍音は慎ましく壁を背にして立っているジリーに目を向ける。
「恐れながら帳簿を広げるのに少々使い勝手が悪そうなので家具の配置を変えさせていただきました。あと、机が狭いようでしたので、こちらは別のものに代えさせていただきました……勝手な真似をして申し訳ありません。お気に召さないようでしたら、すぐに――」
「ううん、いいの!すっごく、使いやすくなっていいわ!」
ジリーの言葉を遮って藍音は執務机に着席する。机は広々としているし、本棚もアイネの身長を考えた上での絶妙な配置だ。
「うん。これなら離縁の準備もはかどるわ。ありがとう」
今度は噛み締めるように言えば、ジリーはようやっとほっとした笑みを浮かべた。
「お気に召していただけて光栄です。ところで奥様、そろそろ昼食のお時間ですがお食事はお部屋にお運びしましょうか?」
「ええ、そうしてもらえると助かるわ」
「かしこまりました。ではすぐにお持ちします」
一つ頷いたジリーはすぐに部屋を出て行った。そして一人になってすぐに、グロイが帳簿を運んできてくれた。
ジリーが用意してくれた昼食は有難いことに片手で食べれるサンドイッチだった。スープも添えてあるが、これも飲みやすいようにスープ皿ではなくマグカップのような食器に入れてある。
「お熱いですのでお気を付けて」
「うん、ありがと」
既に仕事モードに入っている藍音は帳簿から目を離さず返事をして、皿に手を伸ばす。
阿吽の呼吸でサンドイッチを手に載せられた。職場にこんな部下がいたら、とことん可愛がってあげたくなるくらいの気の利いた働きぶりだ。毒殺の件があっても、彼女は最高の拾い物だ。
そんなことを頭の隅で考えながら、藍音は帳簿をめくりはじめた。
*
『結婚しよっか』
一緒に観ていたバラエティ番組のコマーシャルを見て、智哉は言った。
あまりに自然な口調だったし、自宅でお互いスウェット姿だったし、指輪も無かったし、テーブルには呑みかけのビールと乾きもののおつまみが皿に移さず袋のまま置いてあったしーーどう考えてもプロポーズのシチュエーションじゃなかった。
しかも結婚情報誌と食器洗剤と注文住宅のコマーシャルが続いた流れでの『結婚しよっか』である。
――ノリと勢いで言ったな、この人。
一生に一度の大事なことなんだから!と腹を立てたかったけれど、ヘラヘラ笑ってしまう自分が確かにいて、結局、締まりのない顔で「うん」としか言えなかった。
後になって“雑過ぎるプロポーズ=彼が自分に向かう気持ち”だったと気付いたけれど、あの時、年々蓄積していく得も言われぬ黒々とした不安と苛立ちが一気に消え去ったことは間違いない。
この人が自分を救ってくれたとすら思ってしまった。漠然としていた『幸せ』の形がはっきり目に見えた瞬間だった。
だから智哉のことを全面的に信じてしまった。口を開けば“いつか”と“たぶん”ばかりを多用する彼に、疑う気持ちなんてこれっぽっちも持てなかった。
ここだけの話、両親は智哉との結婚に手放しで喜んでくれたけれど、同居を選んでくれた長男の妻にぞっこんで、長女の藍音のことなんてそっちのけだった。
二世帯住宅を建てる際には、実家に置いてあった藍音が大事にしていた私物を迷うことなく捨てた。
男尊女卑が未だに色濃く残る田舎ではよくあること。そんな場所で生まれ育った親が憎いとは思わなかったし、義理の姉に対しても羨ましいとは思っていない。
ただ、自分だけを大事にしてくれる人に出会えたと浮かれ上がった自分には、どうかと思う。
「……もうちょっと半信半疑でいれば、良かったのかなぁ」
帳簿をめくりながら独りごちれば、傍で控えているジリーがぎょっとした。
「何か不審な点でもございましたか?」
「ん?……あ、なんでもない……うふふ、へへっ」
笑って誤魔化して、藍音は再び帳簿に目を落とす。表情を険しくして。
まずは異世界の帳簿がどんなものなのかと目を通し始めて、まだ数分。それなのに帳簿はツッコミどころ満載で、よくもまぁここまで放置できていたなと呆れかえってしまう。
ちなみに藍音が手に持っている帳簿は3年前のもの。つまり、まだ昨年度と今年の分が残っている。
「ねえジリー、つかぬことを訊くけれど、あなた少しは帳簿を見ることができるかしら?」
「はい。ですが父に教えてもらった程度です」
「それで十分よ。じゃあ、ちょっとこれ見てくれる?」
「?……かしこまりま――」
した、まで言い切る前に、ジリーの表情が固まった。
「何ですか、これ」
「だよね」
つい素の藍音の口調になってしまった。しかし侯爵夫人らしからぬ言葉遣いにジリーは訝しむ様子は無く、視線は帳簿に釘付けだ。
「恐れながら、これは帳簿として機能しておりません。ただの数字の殴り書きにございます」
じっと見つめること数十秒。ジリーは怒りすら滲ませてそう吐き捨てた。藍音も同感だった。