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小説では執事グロイについて、まったく描写がなかった。
けれど、こうして面と向かって会話をすれば多少はわかる。長年大きな屋敷を一人で切り盛りしてきた相当頭が切れる男だと。加えて忠誠心も厚い厄介な相手。
そんな彼からどう帳簿をゲットするかしばし悩んだ藍音は、アイネが持つ愛らしさを最大限に利用するという実に古典的な作戦を選んだ。
「グロイ、貴方の言う通りだったわ。困らせてごめんなさい」
ぎゅっと両手を胸の辺りで組みしおらしく頭を下げれば、グロイは小さく息を呑んだ。
「?……い、いえそんな。こちらこそ奥様に無礼な真似をしてしまい何とお詫びすれば」
「ふふっ、いいの。急に出来もしないことをやると言い出したのだから、貴方もびっくりしちゃうわよね。汗かいてるわ。良かったら、これ使って」
クリークルン国の民と接する時はハンカチを必要とする時が多いことを学んだ藍音は、今回はちゃんとポケットに忍ばせてきた。
しかし、グロイは手を伸ばすことはしない。
「お気遣い大変嬉しゅうございます。ですが、お気持ちだけで」
口調こそしっかりしているが、グロイは気持ち悪いくらい態度を一変させた藍音に動揺を隠すことができない。
一寸の隙も無く前髪を後ろに撫でつけてあるせいでグロイの額は丸出しになっている。そこに玉のように浮いた汗が、窓から差し込む正午の光を受けてキラキラしている。
執事の象徴である燕尾服に身を包むグロイは一言で表すなら、ダンディ。歳を重ねた男にしか出せない味のある渋さを持っているし、汗だって加齢臭はしないだろう。
そんなわけで藍音はもう一歩踏み込むことにした。
「そう?じゃあ、わたくしが拭いてあげる」
「……っ!?」
ぎょっとしたグロイは身を引こうとする。だがギリギリのところで藍音に掴まり、適当な椅子に座らされる。
「ほら、動かないでくださいな」
身を縮こませて座るグロイの額に浮いた汗を、藍音はニコニコ笑ってハンカチで拭く。まるで孫が大好きなおじいちゃんと接するように。
「ごめんなさいね、グロイ。わたくしがダメダメなばっかりに、貴方には苦労かけてばかりで……とても、反省しているの」
「いえ。奥様はとても頑張っていらっしゃいます」
2年間、部屋に引きこもっていた人に向けて言う台詞じゃないと思ったが、笑顔を崩さず藍音は言葉を続ける。
「ありがとう、グロイ。でもね、わたくしこのままじゃ駄目だと気付いたの。だから旦那様にこれまで他人任せにしていた女主人としての仕事をきちんとするってお伝えしたのよ」
「は?……あ、いえ。そういうお話だったのですか。私はてっきり……いえ、なんでもございません」
「貴方が誤解するのは仕方がないわ。実はね、わたくし感情にまかせて大人げないことを言っちゃって、旦那様を怒らせてしまったの。あ、これは内緒のお話ね」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせれば、グロイの表情が和らいだ。よし、いける。
「とはいっても……もちろん旦那様の仰る通り、わたくしだってすぐに女主人としてのお仕事を完璧にできるとは思ってないわ。でも、やらなければ何も始まらないじゃない?」
「確かに、そうでございます。奥様の前向きなお気持ちにグロイは甚く感銘を受けました」
「まぁ、嬉しいわ。でもその言葉は、後に取って置いてくださいな。わたくしが完璧に女主人としての責務を果たせるようになるまで。ね?」
「かしこまりました」
顔を覗き込んで同意を求めれば、グロイは笑みを深めて頷いた。藍音は、その機を逃さなかった。
「だから手始めに、過去の屋敷の経費帳簿を見てみたいの。すぐに理解できないとはわかっているけれど、どこまで理解できないのか把握しないと、正しく学ぶことだってできないから」
「ほう、そこまでお考えになられていらっしゃったとは……そういうことでしたら、過去の帳簿をお渡しいたしましょう」
物は言いようだ。あれほど頑なに拒んでいたグロイはあっさり藍音の要求を呑んでくれた。
己の策が成功したことに全力でガッツポーズを決めたい。しかし事が事だけに抜かりなく進めなければ。
「ありがとう、グロイ。……でも、旦那様には秘密にしておいてくださいな。ある程度成果を出せたら、わたくしが直接旦那様にお伝えしたいから」
「さようでございますか。それではしばしの間、このことは私と奥様の秘密と致しましょう」
これもまたあっさり頷いてくれたグロイは「それでは」と呟き立ち上がる。
「屋敷内の経費帳簿は、いつ頃のものをお持ちいたしましょう」
「そうね……わたくしがこのお屋敷に嫁いでからの分すべてをお願いしたいわ」
「かしこまりました。では少し数が多いので、後ほどお部屋にお運びしたします」
「まぁ、グロイがわざわざ?申し訳ないわ……でも、ありがとう」
わざとらしくならないよう、眉を下げつつ微笑んで藍音はグロイに暇を告げた。
自室に戻る為に埃一つ落ちていない廊下を歩いていた藍音は、足を止め窓に目を向ける。
窓にはめ込まれたガラスには、まだあどけなさを残す桜の妖精が映っていた。
「……やっぱ、顔だよね。顔」
イケメンは正義ではないけれど、可愛さは武器であることを藍音は身をもって知った。