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藍音は精一杯、侯爵夫人らしいキリッとした表情を作って口を開いた。
「わたくし貴女を赦すことにしましたわ」
「奥様、それはいけませんっ」
ざっと血の気が引くジリーは、おそらく極刑に処されることを覚悟していたのだろう。
「いけないも何も、もう決めましたから」
「そんな……そのようなことは絶対に駄目です!お願いです……奥様、どうかもう一度考え直して下さいませっ、お願いでございます!」
慈悲を与えられたというのに、まるで命乞いをするかのように床に額を擦り付けるジリーを見て、何か違うと藍音は乾いた笑みを浮かべる。
「ジリー。これは、わたくしは考えた末に出した答えです。覆す気は一切ないわ」
「……で、ですが」
「言っておくけれど、一応わたくしはライオットの妻で侯爵家の女主人。侍女の貴女がわたくしの意向を無視して主張したところで、どっちが優先されるか……わかるわよね?」
“侯爵家の女主人”――この言葉は、屋敷内で絶大な効力を発揮する伝家の宝刀だ。
アイネの場合は錆びついた宝刀ではあったが、幸いにもジリーには効力を発揮して、彼女はぐっと押し黙った。
ただ、その表情はどう見たって、喜びに満ちたものじゃなく苦痛を堪えているそれ。
「ごめんなさい。嫌な言い方をして」
やっぱり自分はアイネではない。アイネだったら、心の支えにしていた侍女にこんな言い方は絶対にしないはずだ。
――こんなんだから、私、智哉に浮気されちゃったのかな。
我を通したいわけじゃないけれど、最善の方法を最短でやりたい。その気持ちが強すぎるあまり、これまで周りの心情を推し量ることを後回しにしてしまっていた。
職場でも部下に怖がられていたっけ。よくあんな人と結婚できたよな、と陰口を聞いたのはいつだったか。都築さんの旦那さんはドМ。そんな根も葉もない噂も幾度か耳にした。
「あの……あのね。真相がわかった今、もうこれ以上、貴女を責めたいわけでも傷つけたいわけでもないの……でも、さっきの言い方は酷かったと思う。上手に言えなくてごめんなさい」
指をこねながら、今の気持ちを何とか言葉にすれば、ジリーはしげしげと自分を見つめる。
探るような視線に居たたまれず、藍音は思いついたままを口にする。
「それとね、唇に薄く白粉を叩いてから口紅を塗ると発色が良くなるの。イメージ的には白いキャンパスに色を塗るような感じで。あとね、これからの季節は乾燥するから、はちみつを塗って保湿して、それから白粉を叩いた方がいい……って、もしまた同じようなクレームを付けられたら、お父様にそう対処すればいいとお伝えして。ついでに、高級なハチミツとか白粉を売りつけちゃいなさい」
もはや自分でも何を言っているのかわからない。
アイネらしからぬ言動しか取れない自分に途方に暮れたその時、ジリーが肩の力を抜いて微笑んだ。アイネが好きだった笑みだった。
「とんでもございません。奥様からいただいた慈悲、ジリーはこの上なく感謝いたします」
「そう。ねぇ、ジリー……この際だから、貴方に伝えたいことがあるの。聞いてくれるかしら?」
このタイミングでそんな風に切り出された場合、十中八九、嫌なことを言われるに決まっている。そう受け止められても仕方がないはずなのに、ジリーは微笑みを絶やすことなく、凪いだ目を向けている。
どうかアイネが貴女を赦した理由を聞いて、そしてアイネの思いを知って。そんな気持ちで藍音は静かに口を開いた。
「あのね貴女は仕事の一環として、わたくしの傍にいてくれただけだと思う。でもね、わたくしは貴女のことが好きだった。辛いとき、寂しいとき、貴女の気遣いにわたくしは何度も救われたの」
「……お、奥様」
「泣いているわたくしに、わざわざ街まで足を向けて買ってきてくれた菓子を与えてくれてありがとう。部屋から出ないわたくしのために、毎日、新鮮な花を飾ってくれてありがとう。眠れないわたくしの為に、貴女の楽しい家族話を聞かせてくれてありがとう。食欲が無いと食事をとらないわたくしの為に、厨房に行って貴女は食欲が進むさっぱりとしたスープを作ってくれたわね。とても美味しかった。ありがとう」
アイネの記憶には色がある。辛く悲しいものは、モノクロ。切ないものは、水色。嬉しいものは、桃色。
今語ったジリーとの思い出は、全てが柔らかい桃色。アイネの髪色と同じ桜色だった。
「それと、貴女が苦しんでいたのに気付いてあげれなくてごめんなさい。わたくしはこんなにも貴女に優しくしてもらったのに力になれなかったこと、とても悔いているの」
「とんでもございません」
「だから……ね」
ここで藍音はジリーに向かって手を差し伸べた。無言で手を掴んでくれたジリーを引っ張って立ち上がらせる。
「これからは、何かあればわたくしに相談して。あと、わたくしの力になって。と言っても、そんなに長い時間じゃないから」
「……と、申されますと?」
急に話が見えなくなったジリーは首を傾げて、訝しげな視線を向けてくる。
本当はあやふやなままで手伝って欲しかったけれど、今のジリーならアイネを裏切ることは無いだろう。
それに商家の娘なら、ちょっとくらいは数字に強いだろうという計算も働いた。
「んー、わたくしライオットとは離縁することにしたの」
「っ……!?」
「だからこれから粛々と離縁に向けて準備をしようと思って――って、ジリーちょっと貴女、大丈夫!?」
急に視界から消えてしまったジリーは、口から魂を飛ばしそうな顔をして床にへたり込んでしまった。