深夜のエレベーター
その日、私はいつものようにリビングのソファーでくつろぎながら、ビールを片手に深夜のテレビを楽しんでいました。何か面白い番組はないものかとテーブルの上に置いてあるテレビガイドを手に取りながら、今日は何日だっけとカレンダーを見て日付を確認しました。
そう言えば明日はゴミの日だったな。
すっかりソファーに根が張ってしまった体をようやく持ち上げることに成功した私は、部屋中に散らばったゴミをまとめる作業に入りました。時計を見ると、午前ニ時を廻ったところでした。
本当ならばマンションの決まり事で朝にならないとゴミを出せないことになっているのですが、この時間ならまぁ文句も言われないだろうと、一つにまとめたゴミ袋を持って玄関を出ました。
二十メートルほどの通路を歩いて、下に降りるべくエレベーターに向かいました。エレベーターの階表示は十六階になっており、私は特に気にすることもなく『下』のボタンを押しました。
十五、十四、十三……。
エレベーターは低いうなり声とともに動き出し、まもなく自分のいる階で止まりました。そこで私は少しぎょっとしてしまいました。
マンションのエレベーターというのはたいていの場合、中を確認できるようにと窓がついています。その窓から、白い服を着た髪の長い女性が立っているのが見えたんです。
こんな時間にエレベーターで人に出くわすのも珍しいな。
私は手に持っていたゴミ袋を見ながら、エレベーターに乗ることを一瞬ためらいました。もし生ゴミの匂いが漏れたりしたら、この人に迷惑だなと思ったのです。しかしそんな私の気持ちとはおかまいなしに扉はがしゃんと音をたて、ゆっくりと開いていきます。と同時に中にいた女性をはっきりと見ることができました。
女性は両手を真下にぶらんと下ろし、少し背中を丸くした姿勢で隅の方に突っ立っていました。手には何の荷物も持っていません。顔は血色が悪く、あまりにも無表情なので生きた人間のように見えませんでした。
少し気味の悪い感じでしたが、恐らくこの人もマンションの住人だろうと思い、私は軽く会釈をし、すぐさま操作パネルの方を向いて一階のボタンを押しました。
九、八、七……。
エレベーターは順調に一階を目指して下降していきます。私はゴミ袋の口が固く縛られていることを確認しました。なるべく女性と距離を保てるよう、自然と足が出入り口の扉ぎりぎりまで近づきます。すると、扉につけられた窓が鏡の役割をして、ぼんやりと後ろの女性を映し出していることに気づきました。はっきりとは見えませんが、女性は正面をじっと向いたまま微動だにしていない様子でした。ここに住み始めてもう五年にもなるのですが、初めて見るような顔です。
こんな夜更けにどこに行くのだろう。
そのとき私は心の中に何かひっかかるものを感じました。その違和感の正体はこのときまだつかめなかったのですが、密室という状況もあってか、得体の知れない寒気のようなものが背中に走ったことを記憶しています。
ほどなくしてエレベーターは一階にたどり着き、扉が開くとともに急いでそこから抜け出しました。マンションの正面玄関を抜けると、幾分気分も良くなったような気がしました。
外は雨が降っているのか、アスファルトの湿った匂いがしました。ふと空を見上げると、どんよりとした雲が月の光をさえぎり、街灯の少ない通りは歩くのが困難とまではいかないものの、遠くの方は真っ暗で何も見えない状態でした。
私はゴミ捨てのついでにジュースでも買いに行こうとお金を用意していたのですが、なんだか気味が悪くなってしまって、どうしようか悩みました。ただその日は非常に蒸し暑く、冷蔵庫にストックしていたビールも底をついてしまっており、喉が渇いたときに寝付けなくなる可能性があったので仕方なく近くの自動販売機まで出向いてジュースを買ってからマンションに戻ることにしました。
うちのような田舎では、近くの自動販売機といっても片道五分くらいはかかります。帰ってくる頃には疲れからか、結構眠気が襲ってきていました。
正面玄関を抜け、エレベーター前までたどり着き『上』のボタンを押すと、やや間があって扉が開き始めました。このエレベーターは一定時間動きがないと中の明かりが自動的に消灯し、誰かが使おうとするとまた点灯するようなしくみになっています。消灯状態だと明かりが灯るまでの間、少しだけ待たされることを知っていたので、このときの私は横の壁に貼ってあった貼り紙を読んでいました。そして扉が開ききった状態になって、ようやく私はエレベーターの中に目を向けたのです。
すると、そこには先ほどの女性が降りたときとまったく同じ状態で箱の中にたたずんでいました。
私は唖然としました。一歩だけ前へ踏み出した足は、そこでぴたりと止まりました。
たまたま行きと帰りがいっしょになっただけでしょうか? そんなはずはありません。エレベーターは一階で止まっていました。つまりこの女性は、私がゴミを捨てジュースを買って帰ってくるまでの時間、このエレベーターの中にずっといたのです。普通の人間なら、このようなことをするはずがありません。私はこの女性が怖くなりました。
女性は相変わらず両手を投げ出し、姿勢の悪い格好で隅の方に突っ立っています。死人のように目を見開いたまま、あらぬところを凝視しているのです。私の方を見ようともしません。
正直なところ本当に乗り込むのが怖かったのですが、扉まで開いているこの状況で逃げるように階段を使うのも、同じマンション住人に対して失礼かなと変な理性が働き、思わずエレベーターに乗り込んでしまいました。今にして思えば、体裁を気にしすぎた愚かな行為だったと言えるでしょう。
中に入ると私はすぐに操作パネルを確認しました。やはりどの階数ボタンも点灯していません。早く動き出すようにと、あわてて『十階』と『閉』のボタンを押しました。
ニ、三、四……。
エレベーターは低い音とともにゆっくりと上昇していきます。しかし、上昇速度がこんなに遅いと感じたことは今まで一度もありませんでした。怖くて後ろを振り返る勇気もありません。私は後ろの女性を扉につけられたガラス窓で確認しました。やはりはっきりとは見えませんが、さっきより首を横にかしげてこちらを見ているように見えます。早く着け、早く着け、と必死に心の中で念じました。
そう言えば――、とここで私はあることに気がつきました。
部屋を出てから最初にエレベーターを見たとき、階表示は十六階で止まっていました。私が『下』のボタンを押すまで、エレベーターは動いてなかったのです。とするとこの女性は、私がゴミを捨てに行く前からずっと、動かないエレベーターの中にいたということになります。恐らく消灯してしまって真っ暗になったこの箱の中に。ずっと。
その事実に気づいたとき、自分の足ががくがくと震えるのがわかりました。このときほど、変に体裁を気にしすぎる自分の性格を呪ったことはありません。とにかく早く十階につくことだけを考えて身を震わせながら恐怖に耐えていました。
七、八、九……。
恐ろしいほどの長い時間が過ぎ、ようやくエレベーターは十階にたどり着きました。扉が開くと同時に私はそこから飛び出し、足早に自分の部屋に向かいました。部屋に入る寸前、一瞬だけ通路の方を振り返りました。通路には誰もいません。私は少しほっとしてドアのカギを閉めました。
翌日になっても、昨日の出来事が頭から離れません。
ひょっとしてあれは幽霊だったのでは。
普段からそういった類いの存在を信じていない私も、このときばかりはそんなことすら思うようになっていました。あまりにも気になるので、私は同じ階に住む世間話の大好きなおばさんにそれとなく聞いてみました。
「ああ、沢木さんとこの娘さんでしょうね」
おばさんが言うには、十六階に沢木という方が住んでいて、そこの娘さんが心の病かなんかでもう何年も前からずっと入院しているのだそうです。
「ひょっとすると勝手に病院を抜け出して、うちに戻って来ちゃったのかもね」
おばさんは訳知り顔でそう言います。普段から噂話の域を脱しないおしゃべりばかりをしているおばさんでしたが、少なくとも幽霊がどうとかといった話よりかは信用できる内容だったと思いました。郵便受けを確認すると、確かに十六階と思われる部屋号のところに『沢木』という名札がかけられていました。
それから数日後、またゴミの日がやってきます。残念なことに、それに気づいたときにはまたもや午前二時を廻った頃でした。かなり不安になりながらも部屋のゴミを片付け、エレベーターに向かいました。エレベーターは十六階で止まっていました。
当然のごとく私は階段を使って下に降り、ゴミを捨てて自分の階までまた階段を使って戻ってきました。念のため階表示を確認するも、やはりエレベーターは十六階で止まったままでした。
なぜかここで私は十六階を見に行こうと階段を上っていました。多分好奇心にかられたのでしょう。十六階に着くと、そっと柱の影からエレベーターを覗き見ます。辺りはしんと静まり返り、物音ひとつしません。徐々に顔を出していくと扉につけられた窓が見えてきました。しかし当たり前のことなのですが、窓は真っ暗で中が何も見えません。
そうか、消灯するんだったな。
あの中に例の女性がいるかもしれない。私はどうしても気になってしかたがなくなり、思わず身を乗り出してエレベーターに近づきました。向こうからはこちらの姿が完全に見えていることでしょう。しかしそんなことはおかまいなしに、一歩また一歩と扉の方へと近づいて行きました。やはり中は完全に真っ暗で何も見えません。さすがにこれ以上のことをする勇気も出なかったので、部屋に帰ろうと足を踏み出したところ、突然エレベーターの明かりが点灯し、私は思わず扉の方を振り返りました。
そこには窓にべったりと張り付いたあの女性がいました。充血した両目をかっと見開き、私の方を食い入るように睨んでいます。半開きになった口が何かを喋っているようにわなわなと震え、乱れた長い髪のほつれ毛が唇の片端に何本かまとわりついていました。とても人間の表情とは思えません。
エレベーターは女とともにそのまま下の階へ降りていきます。私はただただ唖然としてその光景を見つめることしかできませんでした。
十五、十四、十三……。
階表示は徐々に数字を下げていき、十階を表示したところで止まりました。
十階。
とてつもなく嫌な予感がした私は急いで階段を駆け下りました。十階に到着しエレベーターを見てみると、扉が開いたまま中はもぬけの殻です。周りを見渡しても私以外の人間はどこにも見当たりません。
あの女性はどこに行ったのでしょうか。
私は足早に通路を歩き、自分の部屋へ向かいました。カギを廻しドアを開けました。ふと後ろを振り向くと、すぐ真後ろにあの女性が突っ立っていました。
驚きのあまり思わず「うわぁ」と叫び声をあげていました。すぐさまドアを閉めカギをかけると、靴箱にもたれかかりながら心臓の鼓動が元に戻るまでその場で立ち尽くしました。額からとめどなく冷や汗が流れ落ちます。一二分くらい経った頃でしょうか、ようやく落ち着いてきた私は、恐る恐るドアについている覗き窓から外の様子を見てみました。先ほどの女性がうつむいたまま、ドアのすぐ前に立っているのが見えます。私は「はぁ」とため息をつき、部屋に上がってうなだれるようにソファーに身を投げ出しました。
その後も十分おきくらいに覗き窓から外の様子を伺いましたが、やはり女性は何をするでもなくその場に立ったままの状態でした。
四時くらいまではそんなことを繰り返していたのですが、その後の記憶はありません。どうやら私はそのままソファーで眠ってしまったようです。
翌朝、ドアの前に女性はいませんでした。とは言え、さすがにほっておくのはまずいだろうと思い、私は管理人さんにこのことを伝えるべく、一階ロビーにある管理人室を訪ねました。これまでのいきさつを話したところ、管理人さんの表情がどんどんとくぐもっていくのです。
「あのエレベーターには重量センサーがついていて、中に人がいると消灯しないしくみになっているはずなんだけど……」
私はいてもたってもいられなくなり、すぐさま十六階の沢木さん宅を訪れました。沢木さん曰く、娘さんは半年前に病院で自殺をしてもうこの世にはいないのだそうです。




