人の矛盾の話
あなたがこれを見たのならこのエッセイは存在する。
通常の社会を生きる我々は度々理不尽にぶつかる。
誰かにやらされたことを他の誰かに怒られる。
歩きスマホをしていた人にぶつかり、嫌な顔をされる。
そんな中に矛盾という理不尽がある。
自分らしさを出せ。そう言われたと思ったら、周りに合わせろ。と言われる。
自分から動け。と言われたら、勝手なことをするな。と言われる。
こんなに悲しいことはあるだろうか。どちらに動こうとも否定されるのだ。
さて、そもそも矛盾とは理不尽のひとつで辻褄の合わないこと、非論理的であることだ。
であるならば理屈が通っていないと一蹴されるべきものである。
では何故矛盾が生じるのか。おそらく人が原因である。
人を除いた自然には矛盾は存在しない。落石が重力に引っ張られて大気圏へ行くことは無いし、枯れた木に花が咲くこともない。
人はなぜ矛盾を作るのか。
矛盾を作った人は自然によって生まれた生物であり、自然に属しながら、自発的にその自然を塗りつぶし、彼らの望む自然に改造している。その行為は当然既存の自然に対する反逆であり、恩をあだで返しているといえるだろう。
また、そんな人間に危機感を覚えた人間が今更になって人を批判し始める。しかし、その自然に敵対する行為によって自分たちが洋服を着ることができているのもまた事実である。大体、もう人類の方針は定まっていて、中途半端に自然を憐れむぐらいならば、いっそのこと完全にやり遂げ、早々に種の滅亡という形で責任を取るべきである。
そんなことはどうでもいいとして、大事なのはその性質である。伝えたかったのは人の矛盾である。
人の考え方はそれぞれ違うと言われるが、自然との共存を望むものと対立を望むものが入り混じっているヒトは種として矛盾しているのである。ただそれもどこが理由となりそのようなものになったか。
それは、欲である。自分を最優先に考えた結果である。人は野良犬以下の獣だ。
この文の冒頭に戻る。なぜ理屈の通らないことを言う人がいるのか、それは理屈を通していないからだ。
自分の思いついた良いことは、最優先のものとして位置づけする。だから、理由は無く、強いて言うのならば直感である。
だから、そんな鳴き声を聞き取る必要はなく、要求の正解を示してもらうのがいいのだろう。
人の作り出した矛盾とは傍から見ればひどく醜悪な遠吠えである。ゆえに、美しい人の言葉を話さなければならない。要は根拠を持ちその関連を示して口に出すことで自然を蝕む害悪も少しは見れるようになるのである。
人の矛盾に実はもう一つ種類がある。今まで語ったものはいわば種の未熟さによる矛盾、ただの馬鹿による矛盾であるが、三つ目に精神と肉体の齟齬による矛盾が存在する。
幻肢痛なんかがいい例なのではないだろうか、痛みを伝えるものすらないのに痛いと感じる。その正体は、もう一人の自分の痛みである。肉体の自分と精神の自分。同一人物でありながら別の場所に生きる誰か。
本当はどちらか片方がもう一方の作り出した幻想なのかもしれないが、両方存在すると仮定する。
肉体が傷つけば、当然精神も同じ人物のため痛みを感じる。また、精神がつらいと、肉体もまたつらくなる。例えば腕がなくなったとする。肉体にはすでに神経がなく、痛みは伝わらない。しかし、精神の腕はまだなくなってはいない。それは二つの間にラグがあるからだ。ストレスで頭髪が白くなるにしても瞬間的にはそうならないのも、そのラグによるものだ。そうして、精神のほうには腕がなくなる痛みを腕で感じているというわけだ。
そうして説明がついてしまうと、実は矛盾でもないということに気が付くだろうか。妄想ではあるが、一応の根拠が存在している。
矛盾とは、作られて受け取るものではなく、受け取られて作られるものであったということである。
どう思う?
いいと思うよ。でも、僕はそんなに好きじゃない。途中に出てくる君の考えが余計だったと思うよ。
そりゃなんで?自分で言うのもなんだかあれだが、人ひとりとしての意見としては問題ないじゃないか。
ちがうよ、人に対する愚痴…じゃなかった批判を人として書いてしまっているじゃないか、それはどうかと思うよ?
でも、大体君だって僕と同じで結局はそのヒトから生まれたものなんだよ?
だから僕は人類のためにその中の一人として人への批判をしなくちゃならないんだ。
主導権はどっちにあるんでしょうか。肉体を操るのは精神。しかし、精神は肉体の上に普通は成り立つ。