13
ラスト
13 洗浄
騒がしい都会の街、その建物の間、暗い隘路の中で、俺は静かに暮らしていた。
理由はリストラ。現代社会では珍しい話ではないが、まさかその境遇に自分が遭遇するだなんて、思ってもいなかった。
職を失い、家族も離れてしまい、家をも失った。五十前の身体では、新しい職を探す体力もなければ、きっと貰い手もいないだろう。というか、そんな気力など、とうの昔に消え失せた。ということで、余生はゆっくり過ごそうと決めたのだ。
アルバイトという手もある。コンビニとかだったら気楽にバイトもできるのだろうが、もう面倒くさくなった。働くことに疲れたのだ。
(早く死にてぇ)
気まぐれで買ったワンカップの酒に口をつけながら、そんなことを思った。毎日毎日、なんとなく生きているが、死を感じたことはない。死にたいとは思うものの、自殺はしたくない。
苦しんで死ぬくらいなら、苦しんで生きた方がいいだろう。要は、苦しみたくないのだ。生きるにしろ、死ぬにしろ、苦しいのはもう嫌だ。全てにおいて楽をしたいのだ。
(苦しかったなぁ……)
酒の甘さが身体に染みる。どうしても、会社に勤めていた頃のことを思い出してしまって、やるせなくなる。
自分が勤めていたのは、俗に言うブラック企業だった。毎日残業は当たり前。有給なんてあって無いようなもの。休みの日だって会社に行った。今思うと、かなり忙しく、今以上に廃れた日々を送っていたと感じる。
辛かった。家庭との両立も厳しいものだった。仕事ばっかりで中々家に居ることができなくて、家族サービスなんてそっちのけだった。しかし、家族は優しく労ってくれた。それが嬉しくて、いつかはちゃんとお返しをしなければと思っていた。けれど、それは叶わなかった。
妻は不倫をしていた。俺が顔も名前も知らないような男と。それが発覚したとほぼ同じ時期に、辞令を告げられたのだ。
こんなに惨めな思いをするだなんて、知らなかった。浮気の話とか、リストラの話とか、よく聞いていた。他人事だと思っていた。二つが同時に来るだなんて、誰が予想しただろう。このダブルパンチがこんなに重いだなんて、誰が思っただろう。いや、誰かが完璧に予想していても、その誰かが自分でも、この苦しみに抵抗することはできないだろう。
涙が、頬を伝った。一度拭ったら、もう止まらなかった。やりきれない気持ちが、寂寥感が、暴れ出してしまいそうで、力を失くした。どうしようもないって、分かってしまっているから。
どうして、こんなに汚れているのだろう。重くて苦しい、汚い社会。それに飲まれた、汚い自分。もう、何もかもが嫌だ。こんな汚れてところに生きるのも、こんな汚い空気を吸うのも、こんなに汚いところに、自分の身体を置いていくのも、全てが嫌だ。
早く、消えたい。身も、心も、全てを消して去りたい。
環境を呪うのは、良くないことかもしれない。でも、こんな社会じゃなければって、思ってしまうのだ。こんな社会じゃなければ、俺はもっと救われていた筈だ。こんな社会じゃなければ、リストラだって、不倫だってされない筈だ。こんな社会じゃなければ、俺は今だって綺麗に生きているはずなんだ。こんな社会じゃなければ、こんな社会じゃなければ……
不意に、何かが揺れた。グラグラ、グラグラと、世界が揺れている。地震だ。それも、かなり大きなもの。周りの世界が、騒がしい。安全を求めて走る人たちの足音が、バタバタとうるさい。
少し時間が経って、暗い世界から顔を出してみた。ビルで囲まれた世界は、とても低くなって、空がよく見えた。崩れた世界は、どこか自分の境遇と似ているなんて思った。精一杯積み上げたものが、一気に崩れる。自分を投影しているようだった。
何か、放送のようなものが聞こえた。「津波に警戒して下さい」というものだった。
程無くして、津波はやってきた。俺は特に逃げることはしなかった。本当ならば、眠るように死にたかったが、この機会を逃すのはどうかと思う。どうせ沢山の命がなくなるのだ。そこに紛れて死ねるだなんて、自分らしいと思う。
街はもう、水に浸っていた。自分も、水に浸っていた。不思議と、苦しくない。流れに身を任せることは、こんなに気持ちが良いだなんて、知らなかった。
洗われていく、街も人も、自分も。汚れを全て、水に流して、綺麗な身体になって、綺麗な心になって、死んでいく。
嗚呼、俺は、この災害に感謝しなければならないな。なんて素敵な最期なのだろう。死ぬというのに、幸せだ。
ありがとう。カタストロフィー 。
次回 おまけ