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外見ファクター

作者: おせろ道則

 扉を開けば、(かん)(から)かんかん。

 部屋に入ると、そこはもう、ビール缶とチューハイ缶の、雑多な舞踏会場だった。

 (えい)()は別段驚きはしなかった。

 部屋に入る前から、空き缶がごろごろ廊下に落ちていたので、大体の予想と覚悟を決めていたからだ。

 ここは栄次の部屋ではない。

 栄次の大学のクラスメート、紗枝の部屋だ。

 栄次はぐるりと部屋全体を見渡した。

 部屋の隅の、ふくらんで丸められた布団を見つけ、栄次はそちらに近づいた。

 足の踏み場は、もうありえないので、ガラガラと空き缶を蹴飛ばしながら、栄次はそちらに向かって言った。

「……またフラれたんか?」

 布団は何も言わない。

 栄次はしばらく黙って、布団からの返事を待った。

 六十秒後、ドイツ名産のホワイトソーセージにも似た、布団の塊の奥から、泣きつかれた声が返事をした。

「大崎君…『そんなんじゃないって』」

 名状し難い表情で、栄次はポリポリ頭をかいた。

 フォローはもう、抜きにして、栄次はちょいっと布団の口を持ち上げた。

 紗枝はぐずぐずに泣いて、泣き疲れているのか、まぶたがかなり重たそうだった。

 栄次は真正面から、紗枝をよく見た。

 薄茶色のねこっ毛。前髪を横に流した、大人っぽいボブカットヘアで。その髪をぼさぼさにして、肩の小さな女の子が、涙をいっそう目に浮かべて、栄次を見つめた。

 いよいよか。

 栄次は思った。

 紗枝はいつも誰かに振られるたびに、男友達の栄次を呼びつけ、泥酔し、最後には泣きながら抱きついてくる。

「ダイエットしてやる」

「は?」

 『栄次!もうヤダ、死にたい』という、いつもの泣き言を期待していただけに、栄次の頭の中は一時ホワイトアウトに包まれた。

「あたし、痩せるわ。そんでもっときれいになって、大崎君よりいい男とめぐり合って付き合うのよ」

 布団を吹き飛ばし、紗枝はその場で立ち上がった。

「何よ、私だって女よ」

「いや、うん。そうだよ」

「だから絶対きれいになるんだから」

 だからの意味が分からない。

 栄次は思ったが、それ以上に紗枝の意気込みの変化に驚いた。

「いつもと違うじゃん」

 紗枝は栄次をキッと見つめた。

「もうね、こんな風に振られるたびに自棄酒(やけざけ)して、スタイルも崩れていって……そんな自分がつくづく嫌んなってきたの」

「ほうほう」

 自棄酒の度に慰め役に呼ばれる、俺の身の上に気づかいは無しかい。

 栄次は頭の中で愚痴をこぼした。

「それに……栄次にも悪かったよね。彼女にも迷惑だったよねぇ。ごめん」

 テレパシーってあるのかな。栄次は思った。

「いや、俺のことはいいんだけど、確かにそれは前向きだよなぁ」

 栄次は紗枝を褒め称えた。

「私は生まれ変わるのよ」

 紗枝の表情は、かなり生き生きしていた。

「変わってみようか」

 そう言うと、栄次はとりあえず、紗枝をもう一度布団の上に座らせ、一度じっと紗枝の目を見た。

「で、じゃあ、とりあえずどんなことして、痩せようと思ってんの?」

 栄次は紗枝に尋ねた。

「そうね」

 紗枝はうんうんと考えた。

「まずはじゃあ、流行の***ダイエットでも!」

「おやめなし」

「何人よ」

「体に無理がかかって危険だって」

「そんなこと無いよ」

「そんなことあるんです。大体一品ダイエットとか、栄養学から見たらよくないに決まってるだろ。それにそんなダイエット、一生続けていけるのか?やめたら、大体リバウンドするのがそれの末路なんだよ」

 栄次はメガネをはずして、一度きれいに拭きなおした。

「痩せるにしても、健康的でないと、後々いいことないぜ」

「あぅ……」

 反論できずに、紗枝は栄次を憎々しそうに見つめた。

「にらむなよ」

「にらんでません」

 栄次はメガネをかけなおした。

「続きがあるんだから」

 紗枝はきょとんとして、栄次を見た。

 栄次は、部屋に飛び散らかった空き缶をひとつ、ひょいと手にとり、それを紗枝と自分の間にちょんと置いた。

「何?」

 いぶかしげに紗枝が尋ねる。

「誓いの儀式」

「はぁ?」

 と思ったが、しかし栄次の表情は真剣だったので、紗枝は、多少酔いの残った頭で、栄次の話に耳を傾けた。

「本気できれいになりたいんだな?」

「……うん」

「振られて落ち込んで、自棄酒するような女にはなりたくないんだな?」

「うん」

「努力は惜しまないか?」

「惜しまないわ!」

「よし」

 栄次は紗枝の両肩をぽんぽんとたたいて言った。

「俺の姉貴を紹介しよう」



    *


 

 翌日。

 今日は寒さが体にしみる、一月のはじめ。

 紗枝はダッフルコートの中で、カタカタ震えながら、栄次の後について、ビル街をロングブーツで歩いていた。

「寒い」

「もうちょっとだよ」

 そう言って、栄次がひとつのビルをあご先で示した。

 そのビルは、真新しく、ビル街の一角にある、十一階建てビルで、栄次と紗枝は、そのビルの正面玄関前に立った。栄次がにこりと笑って紗枝を見た。

「ここの八階な」

 栄次はそれ以上、何も言わない。

 紗枝もそれ以上何も聞かず、栄次について行くことにした。

 ビルの中に入って、栄次が紗枝をエレベーター前まで案内する。

 ボタンを押して、栄次は紗枝をボックスの中に押し込んだ。

 紗枝はビル街を歩いているときから、何か不穏な雰囲気で栄次についていた。その不安が最高潮に達してきた。

「栄次……そこに何があるのよ?―ちょっと!」

 紗枝はあわてて、閉じかけたエレベーターの扉を、両腕で強引に押し開いた。

「おいおい」

 栄次は本気で動揺している。

「ちょっと、栄次は来ないの?」

 紗枝は懇願の目で栄次を見た。

「ここから先は男人禁制なのです」

 栄次は仏のような顔立ちで紗枝を見てふふっと笑った。

「行き先は姉の職場」

「ええ」

「大丈夫。姉貴に話はつけてあるし。嫌だと思ったらすぐに断って帰ってくればいいさ」

「ちょっとう何それ、余計に怖い」

「達者でな〜」

 ひらひらと手を振る栄次の姿は、もろくも扉に遮断され、紗枝を乗せて、ボックスは上へと上り始めた。

「ポーン」

 着いた以上、先へ進まなくては、話が弾まない。

 紗枝は覚悟を決めて、ボックスから八階フロアに降り立った。

 すると、目の前に、いきなり豪奢な扉が現れた。

 洗練されたガラス細工で施された、まばゆいばかりに輝くその扉。

 そして扉の前には傘立がひとつ。こちらは竹細工で、編み方でとても細かな模様が出来上がっており、紗枝にはその模様が、バラの花のように見えた。

 こんな素敵な扉と傘立の前に立っていると、その雰囲気に乗じて、どこからか川のせせらぎが聞こえてくるほどだった。

「しゃわしゃわ」

 ええ。

 紗枝は耳を疑った。今、確かに聞こえたわ、澄んだ小川のせせらぎが!

 紗枝はあわてて、もう一度、ちゃんと現実を直視した。

 扉と傘立はホンモノである。

 こんな都会のビルの一室に、こんな情緒あふれた場所が存在していたなんて……

 紗枝はじっと扉を見つめ、その奥を想像した。

 紗枝は不安以上に、その扉の先を見たいという好奇心のほうが勝ってきた。

 そして思い切って、その、秘密の園につながるだろう扉を押し開けた。


「カランカラン」

 鈴の音が鳴り響き、扉の向こうから、ほのかな花の香りが、いっぱいに吹いてきた。そのさわやかな風が、ふわりと紗枝をなでて去った。

 ホテルのカウンターのような仕切りがひとつ、扉のすぐ先にあり、『御用の方はこのベルをお鳴らし下さい』と、美しい文字で書かれたメモと、結婚式で鳴っていそうな鐘が、ハンドサイズでゴールドに輝きながら、そこにあった。

 紗枝は靴を脱ぎ、部屋に入って辺りを見回した。

 ブルーが基調の、さわやかな……ここはどこかの家なのかしら?

 紗枝は思った。

 右手奥と左手奥に、綺麗なギリシャ建築調の扉があり、右の方が奥にたくさん部屋がありそうだ。

 壁のところどころに、細長い全身鏡がはめ込まれていて、いつでも自分の姿が見えるようになっている。カウンターの奥は、ブルーのカーテンで仕切られていて、何だろう、その奥からはフェアリーのような可愛らしい声が響いている。

 紗枝は一瞬、自分が日本にいて、十分前まで、寒空の中、ビル街を歩いていたことを忘れそうになってしまった。

 はっと目覚めて、紗枝はもう一度慎重に、部屋の隅々を見渡してみた。

 丁寧に置かれた柔らかいスリッパ。

 みずみずしく生きた観葉植物。

 その隣の、モダンなガラステーブルと、豪奢なソファ。

 そしてその上に置かれているのは、真空保存のバラの花。

 左手の壁にかけられている絵画。

 これは……シャガール。

 紗枝は感動で胸が熱くなった。

 そして、その隣には美顔機のポスター。

 あれ。

 備え付けの棚の中。化粧水とクレンジングと美容液のテスター。

 後ろの壁の角。ランジェリーを着た、頭の無いマネキン人形が立っている。

 このあたりで紗枝は、秘密の花園は、秘密なものではなかったことを理解してきた。

 あしからず、紗枝はこの世界をまったく知らないわけではなかった。

 だが、来たことは一度も無かったのだ。

「か、帰ろうかな」

 と、思ったとき、誰かが紗枝の左手を、かしっと掴んだ。

「今井、紗枝さん、ですよね?」

 紗枝はここに来て、一番の驚きをくらわされた。

 掴んだ相手は、目もくらむような美女。

 ロングへアで巻髪(もちろん縦)。豊満な胸に、すっと伸びたハル=ベリーのような脚。真っ白の肌で、美女はナースの服装だった。

「はい……あの、ここって」

 分かっているが、紗枝は確認のため、美女に尋ねた。

「エステティックサロン、『ビューティー』です。店長の牧野です。今日はお越しいただいきありがとうございます」

 女でもうっとりするような笑顔で、牧野栄次の姉は、ナース姿で紗枝を魅了した。


「栄次から話は聞いていたから、とんとんとんっと進めちゃいましょうか」

 カウンター(は受付窓口だった)の前のソファに座り、ガラステーブルに置かれた半永久に枯れない、真空保存のバラの花束を見ながら、紗枝と店長は話しを進めた。

 明るい笑顔で牧野店長は、紗枝に暖かいカモミールのハーブティーを出してくれた。

「えーと……」

 店長の美声とは裏腹に、ぎこちない返事で、紗枝は下ばかり向いている。

「紗枝さん、もしかして緊張してます?」

 おもむろに、店長が尋ねた。

「ええと……はい、いえ、栄次から詳しいこと聞いてなくて」

「ああそうだったんですか。意地悪な弟で申し訳ありまっせん」

 ほほほと笑って、牧野店長は部屋の雰囲気を入れ替えてしまった。

 すごく綺麗に笑う人だなぁ…… 

 紗枝は店長の笑顔をうらやましく思った。

「ほらほら紗枝さん、背中を曲げてると血流が滞っちゃって、新陳代謝が鈍くなってきちゃいますよ」

 店長が紗枝の背中をぽんぽんと叩いた。

「肩こりとか大丈夫ですか?」

「あ、そうですね、最近ちょっと辛いかな」

「あらまあ、それは大変ですね。どうです、話は後にして、一度、こちらの体験コース、やってみませんか?」

「え?マッサージとかですか」

「そうですね。インドマッサージとか、リンパマッサージとか、ソルトマッサージとか、色々種類がありますけど、体験なら、まずはインドマッサージがお勧めですね」

「えと……インドマッサージとは……」

 紗枝の頭の中には、サリーを着たインド人女性と、バリ島の華やかな黒人女性の姿しか思い浮かばなかった。

「体の血流をよくするための全身マッサージで……いやもう紗枝さん、一度やってみるのがいいですって。さ、どうぞ」

「ええと」

 紗枝はだんだんと、店長の言い放つ、若干理解不能な言葉たちと、魅惑的な店の雰囲気に圧倒されてきた。

 何か怖いよう、逃げようかな。

 紗枝は思った。

『本気できれいになりたいんだな?』

 栄次と誓いを立てた、昨日のあの光景が、紗枝の頭をよぎった。

 紗枝はぐっと、その場に踏みとどまった。

「はい、じゃあ、どうやってやればいいんですか?」

 と、めいっぱいの勇気で店長に尋ねた。

「ではまず、向こうの部屋でお着替えしていただけますか」

 にっこりと牧野店長が、バスタオルとブルーの紙ナプキンを紗枝に手渡した。

 


    *



「どうでした?」

 施術を終えて、着替えなおした紗枝は、明らかに施術前とは違っていた。

「すごいです、足があんなに細くなるなんて」

「紗枝さんが変化の出やすい体だったというのもありますね」

 店長が、至急作成のカルテをめくりながら、紗枝にいくつか質問をした。

「紗枝さん、何か運動とかされてました?」

「あ、はい。テニスとバトミントンを学生のときに」

「へえ、じゃあ今も?」

「いえ、今はやって無くて」

「ふんふん、じゃあ、ちょうど今大学一年生だから、そろそろ代謝が落ちかけてくるときかなぁ」

「あ、そうなんですか」

「うん、体の代謝は大体二十歳から落ちてきますからねぇ。だからそこから、いかに急激に落とさないかが大事になってくるんですよねぇ」

「へぇ〜。あのね、牧野店長?」

 紗枝はためらいながら、店長の話を一度切った。

「何ですか?」

「私、最近よく考えるんですけど、このエステは、外見を綺麗にするところですよね」

「ええそうですよ。外見を綺麗にして、さらに体の中からきれいにしていくのが私のお店ですから」

「えっと、それは、メイクとか、強引なダイエットとかで一時的に綺麗に見せるだけじゃなくって、健康的に痩せるってことですか?」

「そうです。健康的に痩せなくっちゃ意味ないじゃないですか」

 店長は微笑んで言った。

「今日体験していただいたインドマッサージも、リンパの流れをよくして、血液の循環がよくなることで、脂肪燃焼を助けて、痩せやすい体にしていくことを目的にしているんですから」

「はぁーすごい」

 店長のトークにも紗枝は感動した。

「紗枝さんは、今日施術に入らせてもらって、やりがいのある体でしたよ」

「えぇ、どのあたりがですか」

「足とか長いし、ちょっと太ももが筋肉が固まっちゃってて太くなっちゃってたけど、頑張ってほぐせば、すっとした綺麗な足になりますよ。顔立ちもはっきりして綺麗な顔してらっしゃいますし」

「……足が長いなんて言われたの、初めてです」

「ええ、ほんとですか」

「……」 

 紗枝は急に黙りこんでしまった。

「どうしたんですか?」

「いえ……やっぱり、人って外見重視なのかなぁって思って」

 紗枝はうつむき加減につぶやいた。

「最近好きな人に告白したんですけど……振られちゃって」

「あら、なんて男」

「その人、すごいかっこよくて、優しそうで、でも、私とは『そんなんじゃない』って。背性格が合わなかったんでしょうか……? それとも私が可愛くなかったからかなぁ」

「紗枝さん、外見にコンプレックスとか持ってます?」

「う〜ん、はい。めっちゃ持ってます」

「こんなに可愛いにねぇ」

 牧野店長が紗枝の頭をなでて言った。紗枝は恥ずかしいような、嬉しいような気持ちが入り混じった。

「外見ってなんなんでしょうねぇ」

 紗枝は言った。

「内面より、外見のほうがよく見られるのかなぁ」

「私の意見ですけどね」

 店長が前置きをした。

「はい」

「やっぱり、見た目は大事ですよ」

店長は言い切った。

「『見た目は重要じゃない。大事なのは心だ』と言う人は、外見への劣等感からそういっているのではないかと、私はつい疑ってしまうんですね。大事ですよ、見た目は」

「うう」

 紗枝はうなだれた。

「みんなアイドルを見て、うっとりするじゃないですか。きれいな人を見て、心が和むじゃないですか。外見は大事ですよ。特に『第一印象』という点においては」

「え」

「私は、第一印象の良し悪しは、大幅に外見から判断されるなぁと思ってます。でもですね、その先の、いい人間関係を築くとかいう話になると、外見だけじゃもたないとも思ってますよ。長く付き合っていくとなると、精神性の比重が大きくなっていくのだと思いますし。だから、外見も大事だし、それに内面も大事だと思いますね。それに両者は切り離せないものだと思いますよ」

「ふんふん」

「ちょっと冷静に考えれば分かるでしょ。たとえば、昨日まで一緒にスーツを着て働いていた同僚が、ある日、ぼろぼろのくっさいTシャツと破れたジーンズで出勤してきたら、みんな『どうしちゃったの?』と思いません?その人を見る目が、何かしら変わるでしょう」

「うん、確かに」

「つまり、『どうしたの?何かあったの?』と、内面の方まで考えるんですよ」

「ああ、ほんとだ」

 紗枝は気付いて驚いた。

「みんな、内面と外見がある部分、つながっていることをちゃんと分かっているわけです。そういう部分から、実は内面の充実度は外見にも現れてくるのだなぁと思います。もちろんその逆もしかり」

「すごい……そう聞くと、私……」

 紗枝の表情に明るさが帯びてきた。

「店長、なんだろう、私とにかくもっと綺麗になりたいです」

「えらい!」

 店長はパンとひざを叩いて、ソファーから立ち上がった。紗枝も立ち上がらせ、左奥の、小さな小部屋に紗枝を押し込んだ。

「ええ、店長、何です急に」

「その言葉、待ってましたよ紗枝さん。そんな男のことは忘れて、ドカーンと綺麗になりませんか」

 薄暗い小部屋で、店長が妖しく微笑んだ。

「というと?」

「集中コースを組んで、体質改善しちゃうんです」

「コース!」

「やる気のある人は大歓迎です。弟からも熱心に言われてたし。店長の権限をフルに使って、あなただけの特別メニューをとことん作成しますよ」

 そう言い切ると、牧野店長は、まじめな顔になって、紗枝の顔をじっと見た。

「紗枝さん。でもね、さっきの話なんですけど、人って絶対、もともと綺麗なんですよ」

「え?」

 紗枝はきょとんとして店長の顔を見た。

 店長はにっこり微笑んで、もう一度言った。

「人って、もともと綺麗なんです」

 店長が紗枝の手をとって続けた。

「年齢を重ねて、食生活や、生活習慣から、ゆがんだ体を私たちは元に戻す施術をしてるんですよ」

「ゆがみを治す施術ですか」

「そうですよ。だからもともと持っている綺麗な体に戻していくんです。紗枝さんはもともと綺麗なんですよ。それにね、やっぱり外見も大事なんだと私は当たり前に思いますよ」

「ああ、やっぱり」

「私は外見は『外見(そとみ)ファクター』であって、『視覚的コミュニケーション』だと思ってますから」

「そとみファクター?」

 すごい言葉だなぁと紗枝は思った。 

「ただ、誤解して欲しくないことは、『見た目も大事』だけど、世にもてはやされる、一般的、『美人が大事』というわけではないということは確認しておきましょうね」

「どういうことですか?」

 紗枝は戸惑いを隠せなかった。

「人それぞれ、味のある外見を持っていますよね。それを自分なりに磨いている人を見ると、私は『ああ、いい外見を保ってるなぁ』と思うんですよ。かっこいいなぁと思います。本人の心構えが外見ににじみ出てきているからですね。私も結構、外見には気を使いますよ。私なりに、ある程度潔く、着飾らない服を好んだり、私に似合うメイクがいいなぁとか思ったりしますもの。外見を整えると、精神が整ってきたりもするんですね」

「すごい、店長、すごい素敵です」

 紗枝は店長のセリフすべてに感銘を覚えた。

 きっとたくさんの会員に話して、みんなを魅了しているのだろう。

「一番確信をもって思うのは、心がさわやかな人は、『一般的美人』じゃなくったって、『美人』だし、さわやかに見えちゃうんですね」

 店長は紗枝の目を、深く深く覗き込んで一言伝えた。

「あらゆる面で、見た目、大事ですよ」 

 すごい、この人はカリスマ店長だ。

 紗枝は胸ときめかさながら、そう確信した。

「でもま、先ほども言いましたけど、やっぱり、誰かと初めて会ったとき、第一印象は外見がどんなのか、じゃないですか?」

 ころりと可愛らしい笑顔に戻って店長は言った。

「私はそうだし、他の人もそうじゃないかと思うんですよ」

「ふんふん、確かにそれはそうです」

「でも、それから、話をして、相手との共通点とか趣味とか、つまり相性の問題も入ってきますよね。そうなると、外見もだけど、内面の重要性が大きくでてくるわけですよ」

「うんうん」

「だからね、私は両方綺麗にしてあがられたらなぁと思っているんですよ。ここのお店のスタッフは心も綺麗な子がいっぱいですからね。あ、紗枝さんご存知ですか?beautiful(ビューティフル)って単語は、肉体にも、精神にも使われる形容詞なんですよ」

「へぇ、ほんとですか」

「 “beautiful(ビューティフル) mind(マインド)”っていう映画もありましたし。体と心は切り離して考えるものじゃないですよ。両方高めていきましょうよ」

「そうですね!」

 紗枝は生き生きした表情で、牧野店長とタッグを組んだ。

「お願いします、店長!あたし、頑張ります」

「まかせて紗枝さん。後悔はさせませんよ」

 牧野店長ものってきた。

「というわけで、スタッフの皆さんカモーン!」

 店長が、後ろのブルーのカーテンをシャッっと開くと、そこには、エステのスタッフの面々が。二人の会話を覗き見しながら待ち構えていたのだ。

「おお、ほんと、皆さん神々しい」

「でしょう、私の自慢のスタッフですよ」

「紗枝さん、話は聞いてました。一発、綺麗になりましょう」

 若干体育会系のノリで、一人の女性が前に進んだ。

「紗枝さん、こちら、チーフの中島先生です。先生は東洋医学に長けていて、ここでもモンテセラピー担当を勤めてもらってるんです」

「モンテセラピー?」

「東洋医学の知識を使った、頸椎や体中のツボを刺激して、体の内から、ゆがみを治していく施術です。最近こちらにもはいったんですよ」

「ここのエステは、西洋・東洋混合でやってますからね。効果の出は早いですよ」

 中島先生は微笑む。

「はぁ〜何でしょう、私、これからどんなことをするんですか」

「そうですね、コースを組むのに、まず紗枝さんは筋肉質で太ももの厚みが気になりますので……スペシャルいっときましょうか」

なぬ、スペシャル?紗枝は内心びくついた。

「外からの刺激で、固まった筋肉とその間に挟まったセルライトをほぐしていく強力なマッサージですね。やわらかくほぐせば、そこの筋肉も正常な位置に戻していけますし、どんどん細く綺麗な足になっていきますよ」

「あと、ウエストかな?カルテの写真を見てたんですけど、もうちょっと括れがほしいですね」

「そうですね、じゃあそのあたりはソルトマッサージで脂肪燃焼がいいでしょうか」

 中島チーフと牧野店長が、どんどん紗枝用カルテを作っていく。

「あのあの店長、それでですね、気になるところの、その―お値段は?」

「ああ、そうでした」

 仕事を忘れるくらい、楽しそうにカルテ作りをこなしていた店長は、紗枝のほうに向き直った。

「まず、コースとしましては、大体三〜六ヶ月コースが通常でして、紗枝さんは、短期集中型で三ヶ月コースを組みたいと思ってるんです」

「ふんふん」

「ちょうど体の細胞がすべて入れ替わるのが三ヶ月ですからね、安定期も入れていくとなるともうちょっと伸ばしたいけど、とりあえず三ヶ月はいたただきたいのです」

「はい、なるほど」

「で、お値段ですが」

「はい」

「二十万ですね」

「―」

 やはり紗枝は大学生。そこは絶句しなければならなかった。

 しかし、絶句はしたが、続絶句はしなかった!

「分かりました、工面してきます」

「かっこいい!」

 店長は叫んで紗枝をその綺麗な立ち上がりぶりをみせた胸の中で抱きしめた。

「紗枝さん、間違いなく綺麗になりましょう」


   *


 夕方、街中をバイクで走る栄次の携帯に、紗枝からメールが入った。

 バイクをわき道に停めて、栄次は携帯を開いた。

《栄次、ありがとー!今日店長に色々話聞いて、ダイエットはじめることになりました〜!ほんと紹介してくれてありがとー☆》

「おお」

 栄次はメールの文章を見ながら、少し複雑な心境を持った。

 多分、結構なコース、組んだんだろうなぁ。まあ、体壊すよりはずっといいけど。姉貴もいるし。

 栄次はカチカチと返信メールを打った。

《無理しすぎんなよ》

 そして、彼女とのデートの待ち合わせに、急いでバイクを向かわせた。


   *


 三日後、紗枝のエステコースが本格的に始まった。

「こんにちは」

 カランカランと軽快に扉を開く。

「ああ、紗枝さん、こんにちは〜、今日からですよね」

 中島先生が受付窓口から、オリエンタルな笑みで、紗枝を出迎えてくれた。

「はい、よろしくお願いします」

「はい、じゃあお着替えください」

 体験コースの日と同じように、バスタオルと紙ナプキンが渡されて、紗枝は更衣室で着替えを済ませた。

「すっごい、ここもめっちゃ綺麗」

 紗枝は改めて、エステサロンの隅々にちりばめられている、美意識の高さに感銘を受ける。

 この蛇口、金?

 このライトの巻貝模様とか、椅子のゴージャス感とか……う〜ん、ここに来るだけで刺激されるわ。

 これほどの洗練された美意識の高い空間に入ると、紗枝の美意識も自然と高まってくるようだった。

「紗枝様、紗枝様、ご準備できましたらどうぞ」

 紗枝様!

 更衣室の向こうから扉を柔らかにノックするスタッフの呼び声が、紗枝をますますお姫様気分に仕立て上げてくれた。

「お手洗いは行かれますか?」

「あ、はい。行きまーす」

 トイレに入ると、まず、取手が、普通ではなく、豪奢な細工が施されている。

 そして、ロールペーパーの傘は、真鋳だった。

「うわ、輝いてる!」

 こんなトイレで用を足す人は、VIPしかありえないと思っていたのに、そのトイレで便座を、今自分が使っているかと自覚すると、紗枝は自分が何者か、だんだん分からなくなってくるようだった。

 トイレから出てきて、次は大きな体脂肪測定付の体重計の前に案内された。

「はーい、ではどうぞ」

 タオル分の四百グラムはしっかり引いてある。その細かな気遣いに感心させられた。

「はい、いきます」

 ちちち、と体重計が音をならし、紗枝の体重、体脂肪が数値として現れた。

「う〜ん、ちょっと体重の割りに体脂肪が多いかな」

「ああ、そうなんですか」

「大丈夫ですよ、こちらに来る皆さんも、そうやって痩せていくんですから」

 スタッフの一人、横溝先生はそうおっしゃった。

「はい、じゃあ、こちらのお部屋にどうぞ」

 初めての日は、半分パニックになっていて、なかなか部屋の隅々まで観察できていなかったので、今日また入る部屋は、初めて入るように感じで、紗枝はどきどきした。

 このサロンは、大体十個ほどの施術室があり、ひとつは大体、たたみ二畳ほど、個室の真ん中に大きなモスグリーンのベッドが備え付けられている。ベッドはナイロンで包まれていて、汗をかいてもそれ以上しみこまないようにするものだった。

「はい、ではタオルいたただきますね」

 タオルを渡し、、紗枝はそのままベッドに仰向けに横になるようすすめられた。

 初めてだと、こうやって、誰かの前に裸同然で野転ぶのは恥ずかしいなぁ。

 紗枝はまだ、エステに対して戸惑いをぬぐいきれていなかった。

「ええと今日は何をするんでしょうか」

「そうですね、今日は、スペシャルで太ももをほぐしましょうか」

 出た、スペシャル。

 紗枝は心の中で復唱した。

「スペシャルは二人でやりますからね」

「え?」

 と、入り口の扉から、長い髪の長身の女性が入ってきた。

「はじめまして、紗枝さん。ここのスタッフの大宮です。今日は一緒に入らせてもらいますね」

 二人で両足マッサージするのかな?

 紗枝はどきどきしながら、二人の動きを見ていた。

 が、次の瞬間、エステでは聞こえるはずも無いと思っていた、妙な音が聞こえ出した。

「べちべちべちべちべちべちべちべち」

「あいだだだだだだだだ!」

 二人は紗枝の太ももを、まるで民族楽器の太鼓をたたく遊牧民のように、紗枝の太ももをべちべちべちとたたき出した。

 そして今度は、手をチョップの形にして、ずがずがずがずがと、また紗枝の太ももをたたき出した。

 あいたー。紗枝は涙ぐみそうになったが、ベッドにかじりついて我慢した。

「こうやって……、ね。固まった筋肉をほぐしていくんですよ」

 息を切らせながら、エステシャンはなおも紗枝の太ももをひっぱたく。

 ここはいったいどこなんだろう。

 紗枝のなかで、エステティックサロンのイメージは、セルライトと一緒に砕けていった。


   * 


「へぇ、それはそれは」

 栄次は笑う。

「あれが最近のエステなの?」

 ぜーぜー言いながら、大学の喫茶店で、紗枝は栄次に、今日の施術に関する出来事を(話せる範囲で)事細かに説明した。

「それだけじゃないよ。リラクゼーションマッサージってのもあるし」

 栄次はけらけら笑って紗枝を見た。

「でも何か、面白いことやってるみたいじゃん」

「まあ、確かに面白いわ」

 紗枝はウーロン茶をこくっと飲んだ。

「あれ、炭酸系、やめたんだ」

 栄次が紗枝のコップを指差して聞いた。

「ああ、うん。太るし、炭酸は骨溶かしちゃうから、ほどほどにすることにしたの」

「へぇ」

「生活習慣も変えていかなきゃって思って。アフターケアが大事でしょ」

「ほうほう」

 栄次は感心した。

「一週間にどれくらい通ってんの?」

「週二。それで後の五日間は、私のアフターケアが大事になってくるわけよ……」

 言って、紗枝がばっと頭をテーブルに伏せた。

「何?」

「大崎君よ」

 喫茶店に、大崎と、その男友達と、何人かの女の子がわいわいと入ってきて、二階席に話しながら言ってしまった。

「もう行ったぜ」

「ほんとでしょうね」

 紗枝はゆっくりと顔を上げた。

「何で隠れるのよ」

「何か今、会うのが悔しいから」

「何、まだ好きなの?」

「好きというか……分かんない。好きなのかな、あたし」

「俺に聞かないでよ」

「とにかく、何かこう、もっと綺麗になってから、ばばーんとお目見えしたいの」

「ふうん、そうなんだ」

「そうなの、悪いの」

「いや、悪くないけど」

 飲みかけのジュースを横にずらして、栄次は紗枝をまっすぐ見た。

「そのままでいいのに」

 紗枝ののどが、こくりと鳴った。栄次に気付かれないほどの、ごくごく微音で。

「エステ、紹介したくせに」

 紗枝がゴツリと栄次を殴った。

「あいで」

と栄次はうなって笑った。

 二人はけらけら笑って、ばしばしたたきあった。

 突然ブブッという電子音が、二人の間に割って入った。

 テーブルに置いてあった栄次の携帯が、ががががとバイブを振るわせる。

「あ、彼女でしょ」

「おう、そうだね」

 言って、栄次は携帯をパカっと開き、メールを読みながら、少し冷たい顔をした。

「あたし、次、授業あるから。栄次は?」

「あ、俺、次休みだわ」

「うん、んじゃまたね」

「おう」

 紗枝がテーブルから立ち、教室に向かい栄次はそのまま椅子に座ってメールをもう一度ぼんやり眺めた。

「何なんでしょうねぇ」

 栄次はポツリとつぶやいた。


   *


「なるほど〜。じゃあ痩せたら、その彼に会うんですね」

 牧野店長が紗枝の体をぐりぐりとマッサージする。

「はい、何か目にもの見せてやりたいというか……」

 ベッドにうつ伏せで、ウエストのマッサージをしてもらいながら、紗枝は店長と話した。

「そうですね。見せるんだったら、一切連絡を絶って、それで、ばばーんと登場したるのがいいですねぇ。紗枝さん、学校ではその彼とは会わないんですか?」

「注意すれば会わないですね、今、一月中旬で、もうすぐテストだし。それが終わったら春休みだからまるまる二ヶ月会わないですむし」

「いい時期じゃないですか。春休みに再会する頃には大変身ですよ」

「えへ、そうですか」

 紗枝はかわいく、はにかんだ。

 今日はソルトマッサージを施されている。

 ソルトマッサージのクリームは、ソルト入りで少しじゃりじゃりして、紗枝はそれでマッサージされると、こそばがゆかった。

「じゃあ紗枝さん。その彼のこと、まだ諦めつかないんですか?」

「いえ……好きというか、どうなんでしょう。好きなのかなぁ、私」

 何だ同じこといってるような。

 紗枝はあれあれと思った。

「何かですね、すごく悔しかったっていうのはあります。振られ文句がちょっとひどくて」

「なになに、何て言われたんですか?」

 店長のマッサージする手の力が強まった。

「いやいや……」

 紗枝は口をにごして、別の話題に会話を持っていった。

 隣の部屋では、この間紗枝がうけたスペシャルマッサージの太鼓の音が響いている。

 店長に、腰をむにむにとひねってもらいながら、紗枝は振られ文句を頭の中で反芻していた。

 あれは……ないんじゃないかなぁ。


   *


 一月末、テストもレポート提出も終わり、学生たちは大きく背伸びして、2ヶ月間の暇をもてあそぶ春休みに突入した。

「はい、確かにレポート受理しました」

 事務の窓口で職員が証明の判子をぽんぽんと押す。

「ありがとうございます」

 締切日ぎりぎりのレポートを提出で、栄次はやっと、ほっと一息ついて、携帯のメールをチェックした。

「あ」

 紗枝から『一年間お疲れ』メールが入っていた。

《テストお疲れさーん☆レポートちゃんと出したか〜》

 ぷぷっと笑いながら栄次は返信メールを出した。

《おおサンキュー、そっちもお疲れさん。てか学校あんま来てなかっただろ》

《うん、テスト以外ほとんど行ってなかったな〜栄次は今学校?☆》

《おう、今帰るとこ。紗枝、学校いるの?》

《ううん、違うよ〜☆》

「……」

 聞かずにメールを切るのも、一興かと思ったが、栄次は紗枝の促しに応えてあげた。

「エステに、はまりきってるな〜」

《へ〜、てか、どこにいんの?》

《スポーツジム♪》

 なんですと。

 返信メールには書かなかったが、書きたかった。


   *


「あ、え〜いじ」

 栄次が、一日体験分の料金を払って、ジムに入り、ジャージに着替えて更衣室から出ると、マシーンジムに囲まれて、汗を拭いている紗枝の姿が栄次を呼んだ。

「え〜と、君はいったい何になりたいのかな」

 レッグプレスを押す紗枝の隣に立って、栄次は娘を諭すように、彼女に尋ねた。

「綺麗になりたいのよ」

 栄次は半分呆れて、呆れながらも紗枝に感心した。

「いつからジムに通い始めたの?」

「う〜んと、十日前かな」

 ぐぐっとマシーンを押しながら、紗枝は栄次を横目で見た。

「店長にも聞いたらね、軽い負荷での筋トレとか、有酸素運動なら、全然やっていいって。ただ、あんまり重い負荷で筋トレすると、また筋肉がこわばっちゃうかもしれないから、それは控えるってコトでね」

「すごいなあ、エステにスポーツジム。それって理想の痩せ方かもなぁ」

「え、ほんと。いやん嬉しい」

 おほほと紗枝は微笑んでみせた。

 紗枝のほころぶ顔を見て、栄次はぷぷっと笑って、もう一度紗枝に聞いてみた。

「そんなに、あいつが好きなの?」

「それ、店長にも聞かれた」

「ぷっ、マジで。てか、そりゃ聞きたくなるよ」

「あたしがいつになくダイエットに頑張るから?」

「ま、ね」

「人ってのはある日をきっかけに変われるもんなのよ。あたしは大崎君がきっかけで変わろうと思えたの」

「ほう」

 栄次は紗枝の言葉にこみ上げるものを感じた。

「それにねぇ」

 不意に、マシーンを離して、紗枝は次のマシーンに移動した。

「? 何だよ」

 栄次も紗枝を追って、紗枝の隣のマシーンに座った。素人並にプルアップを扱ってみた。

「言われたのよ」

「?」

「告白したとき……つまり振られ文句よ」

「……何を言われたの?」

「『妥協はしないと決めてるから』って」

 がっこん。

 人の力が離れたことで、プルアップは大きく揺れて、フロア全体に金属音を立てた。

 紗枝はさっさと更衣室に入っていった。

 栄次はそこに座り尽くした。

「キッツー……」


   *


 ジムの近くの喫茶店で紗枝と栄次は話しこんだ。

 外の寒さから暖かい室内に入っただろう、紗枝の頬はピンクになっていた。

そんな紗枝を栄次はただ、眺めていた。

 紗枝はハーブティー、栄次はココアを頼んで飲んだ。

 大きなボストンバックを、こつこつとけりながら、紗枝はこぼした。

「あたしのコト……大崎君は好きじゃなかったのよ」

「あんま思い返すなよ」

 痛々しくて、フォローに困る。

 栄次は胸をキリキリさせた。

「だって、妥協はしないって」

 栄次はまた、うう、っと言葉詰まされた。

「それは向こうに問題があるんだって」

「そんなこと無いよ。だって恋愛って相互関係でしょ?」

 紗枝は、真顔になって言った。

「う、ま、そうだな」

「気が合わなかったのかなぁ。けっこう話して、みんなで遊びにも行ってたけど…きっと何かが足らなかったんだなぁ。別に外見だけじゃないってのは分かってるから、分かってるけど、なおさら次の人には、外見も内面ももっと綺麗になって出会いたいと思ったの」

「……前向きだなぁ」

 栄次がふと、言葉をこぼした。

「そう?とことん後ろ向きな気がする」

「そんなことないよ」

「もちろん、付き合っても私は向上するわよ。そんな相手を見つけたいの」

 紗枝はふふっと笑う。

「ふむふむ」

 栄次はこくっと一口ココアを飲んで、ふいっと紗枝に、一言伝えた。

「彼女と別れた」

「……どして」

「どしてって」

 返事に困っているような表情を栄次は見せた。

「いや、ああ、そうよねごめん」

 慌てながら、紗枝は栄次に謝った。

「でも、何でよ、ほんとに」

 紗枝は少し、寂しそうに栄次に尋ねた。

「ほんとに何ででしょうねぇ。最初メールで《もう別れよ》とか言われるし」

「はあ何それ、面と向かって言えっちゅうに」

 啖呵をきって、なんにしても栄次に失礼な発言だったと気付いて、紗枝はしゅうんと小さくなった。

「いや、ほんま、俺もそれは気分悪いからさぁ。直接話してちゃんと別れたんだよ。なにかなぁ、どうも俺といるとつまんなかったらしくて」

「あたしはつまんなくないよ」

 言って、また何のフォローにもなってない気がして、もう紗枝は下を向いて黙ることにした。じりじり、お口にチャック。

「まぁねぇ、俺もそんなに彼女が出来たからって、別段オシャレする気も俺は無かったし。なんとなく、いてくれていいいなぁって思ってたんだけどねぇ……こういうのも、相性って言うんだろうなぁ」

「……」

「俺も、紗枝みたいに、外見をもっともっと磨こうとしてれば、続いたんかねぇ」  

 前置きなく、栄次は紗枝に、男として尋ねた。

「女ってさ、隣に置いておく男が外見不細工だったら、耐えられないってホント?」

「どこから拝聴したのよ、そんな話」

「どうなのよ」

「人それぞれなんじゃない。恋愛中は言葉は要らないって、はっきり言う子もいるし。でもあたしは話せなきゃ嫌だし、話してすっごい楽しくてそれで好きになることの方が多いもん。だから、人それぞれ」

「ふうん」

「そのままでいいのにねぇ」

 紗枝が、ポツリと栄次に言った。

「……」 栄次は、ココアを皿の上に戻して、少し黙って、じっと紗枝の顔を見た。

「本気で言ってる」

「茶化す理由がどこにあんのよ」

 紗枝が少しむっとした表情で栄次をたしなめた。

 ぷっと栄次は笑って、ウェイトレスにコーヒーを追加した。

 

 窓の外は、かすかだけれど粉雪が舞っている。外を歩く人から見れば、窓ガラスの曇りの奥の、楽しそうな二人の姿は、恋人同士にしか見えなかった。




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