保健室
それにしても、と思う。
千尋は小柄な方だが、それでもよくも軽々と抱き上げられると思う。
ヒーローがヒロインを抱き上げてきゃあ!って話は漫画の中だけの話かと思っていた。あれが現実ならば、人目がない場所でそっと下ろして、引きつるほどに酷使した筋肉を休ませながら運ぶのだろうなあと思っていた。
おんぶならまだしも、両腕に50キロかかると、辛いはずだ。
それを、息を弾ませるでもなく、急ぎ足になるでもなく淡々と運ぶこの人はすごい。
「あの、何年生ですか?」
「オレ?2年生。そっちは?」
「1年生です。あの・・・」
会話を始めたはいいが、やはりスカートが気になる。しかも、胸元は袷だ。これは・・・。
千尋は目の前の袷に手を差し込んだ。そして、開いてみる。なるほど。
「・・・・・・おい、こら」
さらに低くなった声が聞こえたが、こちらの探究心が先だ。
「これは柔道着ですね!」
「剣道着だ」
分かったとばかりに言ったのに、間髪入れずに返事が返ってきた。
「だから、スカートはいているんですね!」
「・・・・・・袴だ」
呆れたような声が聞こえたが、千尋は大満足とばかりに、せっせと自分が乱した袷をきれいに戻し・・・戻し・・・・・・。
「こ、こんなもんで?」
横抱きにされたままでは、うまいこといかなかった。
「仕方ないな」
笑いを含んだため息が降ってきて、ほっとした。
気になることがあると、後先考えずにやってしまい、終わった後で後悔する。今回は怒られずに済んだようだ。
「保健室の先生いないな・・・って、出張か」
保健室をのぞき込むと、誰もいなかった。ドア横に、出張中のプレートが下がっていたので、勝手に入ってちょっと薬を借用することにする。
軽くいすに下ろされて、彼が腕をくるくる回しながら棚に近寄っていっているらしい動きが見える。
やっぱり、重かったようだが、特に痛めてもないようで感心した。
「しみるぞ~。簡単にしか治療できないから、破片とか入ってないか、病院行けよ」
膝に冷たい感触がして、ぴりぴりと痛んだ。
眼鏡がないので、いまいちどのくらいの怪我なのかがつかめない。
「オレは、湿布もらいに来たんだけど、そっちは何かいる?」
あちこちがズキズキ痛むが、湿布で覆えるような範囲ではないと思うので、遠慮しておいた。
下手したら保健室の湿布薬をすべて使ってしまう。
「帰って病院に行きます」
「そうだな。じゃ、オレ部活戻るから」
ひょいと立ち上がって離れていく気配に手を振って制止した。
「あの、すみません、ありがとうございました!私、相川って言います。名前を教えてもらってもいいですか?」
「ああ、西田だ。―――じゃあな」
軽く手を上げて、さらっと保健室を出て行った。とてもいい人だ。
何より、胸がどきどきするほど好みの声だった。顔がはっきり見えていたら、真っ赤になってしまって、顔を上げられなかったかもしれない。
怪我をして、眼鏡も壊れてしまったけれど、それだけはちょっとラッキーだったかなと思った。
さて、教室にたどり着いた。
ちょっと大げさな言い方だと捉えられるかもしれないが、実際大変だったのだ。
普段から、どれだけ目という器官に頼り切っているのかが如実に現れた道のりだった。
つまずくし、ぶつかるし、曲がり角間違えるし、教室が分からないしさんざんだった。
当たり前だが、教室には誰もおらず、由美も帰ってしまっていた。
鞄に入れっぱなしだったスマホを見れば、『ごめん、時間切れ。先に帰るね』メッセージが入っていた。
こちらこそごめんだよ。スマホさえ持って行ってないから、連絡も取れずに、心配させてしまったのではないだろうか。
自分も今から帰るという返信をしてから、鞄を持った。
さあ、・・・・・・どうしたものか。
両親も姉も仕事で、迎えに来てくれる人などいない。
幸い、自転車や電車通学などではなく、徒歩で帰ることができる。
しかし・・・千尋は、窓から外を眺めてため息をついた。
景色がぼやけすぎだ。無事にたどり着ける気がしない。
だけど、帰らないでここで両親の仕事終わりまで待つなんて嫌だ。
ゆっくり歩けばどうにかなるだろうかと、嫌々ながら、足を踏み出した。