第5翼 片翼の纏輪5
いつもお読みいただきありがとうございます。
元の分割したお話です。ご注意を。
「真正面はダメだ」
道なりに突っ込めば即戦闘に巻き込まれ、か細く虚弱な一般人の体は壊されてしまう。
回り道をしてでも確実性を保証できる一路が望ましい。
「えっと。ここから、行けるか?」
レイは急がば回れと気持ちを説得しつつ、戦闘場所より右手前の細い路地に入る。
連日の雨と《SPCT》のおかげで、スズメはおろかハクセキレイすらいない。
ついでに、いつもはのんきなハトポッポも。
「貸し切りの公道……なんてね」
ゴーストタウン並に生き物の少ない街。
レイは不謹慎ながら好都合とほくそ笑む。
数十歩ほど駆けた先にある角を左に曲がり、崩れたビル跡が映るまで道に沿い続ける。
「このクロ様に当ててみやがれい、ウスノロッ!」
ビルの向かいから青年の勇ましい声。
そこそこ距離は開いているので、かなり声量を込めた叫びだ。もしくは《SPCT》と闘う己を鼓舞するエールであろう。
膝下まで伝わる地響きは、レイに両者の闘いの壮絶さを彷彿させた。
「僕ミンチになるんじゃ……いやいや、直ぐ逃げれば問題ない、はず」
レイは、自分のちょっかいが、真に余計なお世話とならないようにと祈る。
その祈祷の途中、異様な存在感を頭上に感じた。
中腹を滑らかに真っ二つにされたビル。断面だけは丹念にヤスリ掛けされたようになだらかだが、レイからは窺えない。
「ここか」
そっと足を踏み出す。嫌らしいほど慎重になるのは、かつて身に覚えのない脅えが表面化しているから。
「足を、出すッ!」
うっかりの気合付き。
ビジャッ。
水たまりを蹴る。
「出してッ、進めッ!」
サービスとばかりにもう一声。
ズジャッ。
靴の先で後ろ蹴り。
「……ふーうっ、一メートルが千里にも勝るなあ。それにマリアナ海溝より深い水たまりだったな、気分的に」
千里の道も一歩から。
一越えできたのだ。
言わずと知れるだろうが、マリアナ海溝の深さを体験したことは無い。
一足飛びで跨いだ、波紋漂う小さな池のような円をチラと二度見する。
胸の内は憎たらしさと誇らしさが半々だった。
ほっほっほっと掛け声が聞こえそうなステップで、雨の中を駆ける。
しかし意気盛んに踏み入った現場は、そんな浮わついた感情を明確に拒絶した。
「う、え、雨水が赤い」
瓦礫の下から血の川が漏れ出している。
飛来した礫の一撃を受けてピクリとも動かない人たち。
地面に季節外れの彼岸花が大量に咲いていた。
「ウラァ!」
「オォン!」
「うひいっ!?」
おっかなびっくりの光景に騒音が混じり、レイはビクリと震え上がった。
「変な声出た……ていうか近いな。早いところ役に立つものを……」
山となった建物の残骸。
これを掻き分けるのは至難だ。
潰れた人間を目にするのも気が引ける。
ならいっそ初めから周りの人から戴いた方が良い。
レイは見覚えのある服に着目する。その人物は武器に成り得るブツを所持していた。
「……!? これは……」
手にした物はくの字のフォルムをしている。
グリップ側面には《P2000》のマーク。
レイは詳細を知らないが、コレが何かくらい分かった。
「拳銃か。使えそうなら何でもとは思ったけど」
仏様となった制服警官のホルスターから拝借したのものである。
真作を見る、また触るのは初めてのことだった。
ずっしりとした重み。グリップは、成長期のレイでも握れる太さ。
冷たい。
雨風に熱を持っていかれた黒い鉄の塊。途端、その冷ややかさに発砲可能か疑ってしまう。
「この際、犯罪とかは無視しよう。さっき失っていたかもしれない命だ、今更どうってことない。お姉ちゃんが怖いけど」
それに撃つ相手は灰色の悪魔《SPCT》だ。
そこに人の道徳、倫理観を挟む隙間はない。
「ただ当たるかどうかだよなぁ、効きそうもないけどさ……」
ただの銃弾で《SPCT》の息の根は止まらないだろう。
だが、意識を逸らすことさえできれば……。
クロに銃撃が当たらないよう細心の注意は払おう。
そう決めたレイは、抜き足差し足、そろりそろりと歩き始めた。
「はああ、一応当たりそうな範囲までは来れたものの……銃のレンジなんて知らないし。クロがアイツから離れた瞬間を狙って、近づいて、撃つ!」
大中小で言うと中の大きさの建物の陰。そこにレイは陣取る。
物陰から顔を出していると探偵業をしているようだった。
レイは生唾を味わうことなく飲み込む。
飛び出す絶好のタイミングを見計らう。
心臓の脈打つ音が雨音に消され、流されていく。
「うらっ!」
クロが《SPCT》に一撃を加えた。
直後、離脱。
(今だ!)
極度の緊張から瞼が限界まで開く。
脚の震えは既にピタリと止まっていた。
勇気を振り絞った青年の叫びが、三人ばかりの戦場に木霊する。
「う、オオオオ――――ッ!」
「な、なんだぁ!?」
クロがすっとんきょうに声を上げた。
(まだだ、まだ引くな僕!)
引き金に掛けた指が勝手に動いては元の木阿弥。せっかくの銃が何も生かせない。
《SPCT》に襲われても逃げ切れる限界の距離。レイはそのセーフティラインを見極める。
「オ?」
レイの猛りは《SPCT》を振り返らせた。これだけで成果と言える。
お膳立ては終わりにして後をクロに任せた方が良い。
(そんな事分かってる!)
「オオッ!」
《SPCT》が乱入者に一歩近づく。
もう一足分あればレイを攻撃するだろう。
レイは銃を構えた腕がゆっくり上がっていくのを体感する。後は引き金を引いて、撃鉄を作動させるだけになった。
(だけど、僕の気が済まないんだっ!)
「くたばれ、悪魔!」
銃口越しに殺意を込めて、レイはトリガーを引ききった。
*
「うらっ!」
レイが周囲に潜んでから少々時間経経つときだった。クロが、《SPCT》を蹴りつける。
(そろそろ二十分か)
覚悟を決めなければならない時間が近い。すなわち、奥の手を使ってでも足止めに徹する必要が出てきた。
「《纏輪「う、オオオオ――――ッ!」な、なんだぁ!?」
クロの身体に力が漲ることはなかった。
知った青年の叫喚が鼓膜をつんざいたからだ。
他でもない、レイの特攻の意気込みが混じった声である。
「アイツ戻って来たのか……っていうか銃!?」
突貫するレイの握る銃は警官から借用中の《H&KP2000》。
クロも《SPCTRaS》入隊時、一度扱ったことがあった。
「くたばれ、悪魔!」
そして唖然とするクロの前で、レイは鬼気迫る顔で引き金を引いたのだった。
弾倉に詰められるパラベラム弾が火を噴く。
レイの手首から肘へ、肘から肩へ発砲の反動が伝わる。
初速度こそ恐ろしく、《SPCT》は反応できずに直撃した。
「ブッ……オオッ?」
だが、それだけだった。
雨の影響下にありながら顔面に着弾した弾丸。
しかし惜しいかな。結局通常兵器は《SPCT》には効かない。
異界の怪物は衝撃に仰け反りもせず、ただボケた反応で顔を顰めている……気がした。
「クソッ、これでもダメなのか!」
そう言いつつ、頭と身体はちゃんと理解しているのだろう。効果が無いと実感した次には、レイは即座に逃げ出したのだ。
そもそもこの戦場に舞い戻ったことを除けばいい判断。
クロは身も蓋もなく、無茶した青年にそんな評価を降した。
「ったりめえだ、んなもん効くか! でもってこれは俺の仕事だ!」
クロは口ではそう主張をするが、実のところ嬉しくないわけがなかった。他の正規隊員なら叱り飛ばしでもしただろうが。
生憎、お調子者であるクロはレイの乱入を批難しなかった。
「一丁前に隙作ろうたあ……そのバトンありがたく受け取らせてもらうぜえ。《纏輪……解放》!」
「うっ……!?」
目を惹きつけるような突風が吹く。レイと《SPCT》の両方を撫でて過ぎる。
突如出現した異質な気配は《SPCT》さえ釘付けにしている。勿論、レイもそこに漏れなかった。
「…………黒」
思わず口にしたのは名前ではない。純粋な色としての黒色。
クロの金色輪、その肩口から伸びる翼は、余りにも漆黒に染められていた。。
メキメキと音を立てそうなほど金色を帯びた漆黒翼が肥大していく。やがて、片翼は天を衝こうかという大きさになった。
それは巨大な斬馬刀にも見える。
これまでのちゃちな斬撃など比較にならない。
抹殺の一刀がクロを支点にそびえ立つ。
「オンッ!」
《SPCT》が焦燥を見せて吠える。
言わば、本能とでも呼べるものが働いたのだ。
《纏輪》使いは己の天敵として十分な脅威。
強大な力を持ち過ぎた化け物は、ようやくそのことに気付いた。
「《大纏輪刀・黒漆剣》!」
風切りの鈍い音。
黒鉛色の刃は降雨を拒絶する。
生粋の鋭さは大気を両断した。
「チェェィ!」
クロは、唐竹割にて一刀両断の気合を放つ。
「オゥン!」
《SPCT》もまた応じてクロスアームブロックで迎え撃つ。その程度の防御が通じると信じて。
クロが一段と喉の張り裂けそうな声を張り上げる。
「このクロ様に絶てぬモノはねえ――――ッ!」
《大纏輪刀・黒漆剣》の刃は暗灰色の腕をざっくりと容易くカットする。
血の通わぬ腕が、両ともに宙をくるくると舞い、レイのそばに落ちた。
「やった……!」
レイが気色を浮かべて駆けるのを止める。
そして悲劇は起きた。
「アホッ、止まらず逃げろッ!」
「えっ……ぐぶっ!?」
自分でも信じられないほどの濁った声だと思った。しっかり握っていたはずの銃も、ほろりと掌から抜けた。
(は……?)
背中の感覚が……ない。
レイはおかしいなと思い、後ろを振り返った。
くねくねと身を捩る触手。それは無遠慮に苗床である灰色の腕から伸びていた。
「クソッタレが……!」
「カッ……!?」
背に大きな横一文字を刻まれたレイは、膝から崩れた。
《SPCT》に触れた物質、物体は例外なく取り込まれる。
それは生物でさえ、人間でさえ、一つの例外は無かった。
*
レイは背中より全身に伝播する虚無と戦っていた。
無い。後ろの感覚が分からない。
肉を神経ごと削がれたのだろうか。
レイは手を突いて地面を拒み、丸くなりながらそんなことを思う。痛みはあるが、それ以上に何も感じない。
《SPCT》の分体となった触手は、レイに過剰な危害を加えない。ただ身じろいでいる。奇跡的なことに、動くものにしか反応を示さないようだった。
「助かるまで、死を認めんじゃねえぞ!」
クロの必死な声音が聞こえる。
レイに救いの手を差し伸べられるのは、この青年だけだ。だから、必死に鼓舞の言の葉を送るのだろう。
「あぐう……」
肩甲骨付近が次第に熱を帯びる。
苦しい。
レイは肺が圧迫されるのを感じる。このまま広がる無に身体を呑まれ、塵すら残らず消えてしまう。
「嫌だ……もっと生きて……」
草葉の陰からの使者を追い払う。必死に自分を保ちたくて、自分を守りたくて、人生を振り返る。
『ぼく、くりすますにへるめすのくつがほしい』
これは一度だけ読んだギリシャ神話の絵本に憧れたときのレイ。
翼の生えた靴で、風より早く空を走ってみたかった。
『インコ飼いたいな』
今度は小学校の時のレイ。
この直後に《暴君》母からお叱りを受けた覚えがあった。
『もっと科学技術が発達したら空を飛べるかな』
高校に入りたての頃のレイ。
夢見がちなことを言って、友人から「鳥人間コンテストに出ればいいじゃん」とからかわれた。
(碌な走馬燈じゃないや)
レイはへへと力なく笑う。
(でも、僕にも夢があったんだ)
雨は小降りになってきていた。
もうじき太陽も顔を出す。
六月の青い空はチラチラと、雲間から地上を窺うのだろう。
(その空を、思い切り駆けまわれたら……!)
曲らない信念が、レイの心を根底から突き動かす。
「う、ああああああ――――――ッ!」
青年の渾身の産声が、空を突き抜けていく。
瞬間、レイは生まれ変わる。
背から光の柱が立ち上がり、神々しいまでの金色輪が姿を現す。うなじを頂点に右回りで作られる円環。
一本の如意棒のように突き抜ける光が、空でたむろする雨雲を退かせていく。
「まさか!」
レイの姿の代わり様にクロが絶句した。
日本人らしい黒い髪と茶の混じった虹彩は面影すらない。代わりに、髪は圧倒的な白。虹彩はかろうじて明るい灰色である。
背面を覆うリングは、疑う余地なく《纏輪》そのもの。かつ、その《纏輪》は巨大だった。
「うっ……」
レイはかっと目を開いた。
(不思議だ、背中が暖かい。僕に訴えかけている)
「生えろぉぉぉぉ!」
「うお!? まだなんかあんのか!」
肩幅程ある《纏輪》が軋む。めき、めきと右上に伸びるのは金色の翼。ピンと空を目掛けて、天を指す。
「ゥ、ボォ」
「うるさい……!」
レイが瀕死の《SPCT》の脳天目掛け、巨大な翼を叩き付ける。
抜け羽根が舞うように、金の粒子が鱗粉の如く散る。
ぐちり、バキッ。
ミンチを揉み潰したようなグロテスクな破砕音。金色翼は、《SPCT》の胸のコア諸共肉を曳き潰した。
「ひゅう」
クロはその一部始終に感嘆の口笛を吹く。
「はー、ぐう」
レイの翼が急にしぼむ。背中からちょっぴりはみ出る程のサイズ。
恐らくは、一度翼を制御しただけで集中力をごっそりと失ったのだ。
「お、おい! しっかりしろ! おい……」
意識が薄らいでいく。
眠い。
レイは今度こそアスファルトに伏した。
クロの呼びかけもだんだん遠のいて行って……。
「おや、すみ」
それだけ言い残してレイは気を失った。同時に巨大な《纏輪》が粒子となって消える。
金色の残滓は晴れの陽ざしを受けてきらきらと光り、風に乗って飛んでいった。