第2翼 片翼の纏輪2
「いやああああ!」
緊迫を混ぜ込んだ絶叫だ。一体誰が出したのだろう。
レイは死が迫るシーンの一コマに立ち会っている。だというのに呆然と女性の叫びに聞き入った。
周囲はパニックを起こしている。歩行者道路も車線もごちゃごちゃだった。
「オ」
聞き取り辛い声が雨に紛れる。丁度、スペクトから円球状に距離が開いたときだった。次いで、堕天使の腕が一番背の高いビルを中央から分断した。
さっくりと。
「嘘、だろ」
起こっている事象がにわかに信じられない。
物音すら立てずに建築物の上部が落ちる。端に寄っていた民衆の一団が、あっという間に押し潰された。
(何人が下敷きになった?)
レイのいる場所からは、飛び散った礫やガラス片しか見えない。だが確実に、あそこには圧死した人間がいる。
落下の余波に巻き込まれた者だって生きている保証はない。
一つ選択を違えていたら、死んでいたのは自分だった。
「あ、足、おい足、動けよ」
いくら激励しても震える膝は頑なに言うことをきかない。
硬直中のレイを放って、スペクトはゆっくりと地に足をつけた。
「地面が……!」
恐慌と混乱で老若男女に揉みくちゃにされる中、レイは目撃する。堕天使の足元が黒いもやに汚染されていくおぞましい光景を。
アスファルトで舗装された道路を恍惚と取り込んでいくスペクト。
悪魔が地球を貪っている。
深度にして一メートル弱、地面は綺麗に消え去ってしまう。
「オオ」
怪物の視線が横に逸れる。狙われているのは……。
「僕、たち?」
細かく分析するのなら、スペクトの興味はレイたちにない。その背後、周囲の建造物に向けられていた。
灰色の堕天使が「オオ」と聞き苦しい声を上げる。
雨雲人形のような身体で、巨体に見合わぬ短足を動かす。
怯えに支配されたレイには、その光景があたかも高速度カメラで撮影した映像じみて映った。
「うわああああああ!」
ここにきて保たれていた理性が崩壊する。あっちへよろよろこっちへのそのそと、レイは震える足で逃げ惑う。
「オォン!」
「あっ」
ダミ声に気を取られ、レイは振り返った。隆々とした腕が天高く上げられているのが見えた。
(僕は死ぬ。漫画を買いに、買い物にいって、命を落とすのか)
言い訳にするには、あまりにしょっぱすぎる理由だ。もしかするともっと下らない事情で選択を間違えた人間もいるかもしれない。しかし今は自分可愛さに擁護したって許されるはずだろう。もうすぐあの万物を食い尽くす腕に取り込まれてしまうのだから。
「くぅ」
悔しくて、情けなくて目をつぶる。
だがレイが浴びたのは怪物の一撃ではなかった。
「大丈夫ですか!?」
そこには、天使がいた。
固く閉じたまぶたを自然に開けてしまうほど、その少女は美しい。ピンクの色素を詰め込んだ御髪に染料の雑さは見当たらなかった。
「綺麗だ……」
「え、あのっ……」
書店で見かけた女の子と同じ顔。ネックの襟にも同じバッジをつけている。違うのは肌に張り付いた、保温性の高そうな戦闘用スーツ。近くで見ると安全ピンではなく、裏地からボタンで止められたバッジ。
見覚えがあったのは当然だった。そのシンボルが意味するのは、政府認可組織スペクトラズの構成員。
レイの実直な賛美に、僅かに安堵した少女がまた喋った。
「えと、とにかく無事でっ、良かった。君も、早く逃げて!」
避難を急かす少女が桃色の髪を振り乱す。
金色に輝く輪の光茫が強くなる。驚くべきことに、彼女は両のくるぶしから伸ばした金色の板で、《SPCT》の腕を受け止めていたのだ。
レイは聞いたことがあった。《SPCTRaS》の戦闘構成員は例外なく光の輪を纏い、その縁から出でる翼にも似た某を持って戦うと。
《SPCT》の物質浸食特性に対抗しうる唯一無二の金色輪。
「これが、《纏輪》」
「ボケッと突っ立ってる民間人、とっとと退け! 巻き添えを喰らうぞ!」
初めて《纏輪》を目にした興奮から醒め、新たに声のした方に首を捻る。
男が走ってくる。レイと変わらない程度の青年だった。
左肩に浮かぶのは、紛れもなく異能の権化。
板状に真っ直ぐ伸びた《纏輪》の先端は、コンバットナイフを連想させる。
「クロ君、私が対象を抑えてるうちに決めてください!」
「オッケー!」
クロと呼ばれた青年がひとたび跳躍すれば、数メートルの高さにある《SPCT》のうなじにまで跳ね上がった。
思わず目を剥いてしまうほどの身体能力。
レイは自分が守られていることをひととき忘れていた。
「ヤァァァァァァッ!」
雄々しく吠えたクロは、垂直にナイフ状の《纏輪》を振り下す。《SPCT》の肥満気味の首にざっくりと肉厚の刀身を埋め込んだ。
始めこそ抵抗なく《纏輪》を飲み込んだ灰色の肉体。
だが。
「攻撃に気付いたか!? こんの、暴れるんじゃねえ!」
「オッ、オッ、ォン!」
一息に倒せるわけもなく、化け物はうなじにへばりついた異物を剥がそうともがく。低いトーンでオットセイのように鳴くそいつにクロが苛立つ。
空中で振り回されるクロが喚いたタイミングで、《SPCT》を封じている少女が警告を発した。
「……! 了解! ホトリちゃんの支援砲撃が来ます! 直撃まで十秒!」
支援砲撃。
レイは確かにそう聞き取った。
《SPCT》に砲撃が認められた事実はこれまでない。少なくとも現代兵器の類いは一つも。
「こっちも聞こえた! ラブコールはしっかり受け取るぜ!」
「ふざけないでください!」
じっと見ると、二人の頭にヘッドセットの無線が装着されているのがわかる。
レイには姿が拝見できないが、まだ味方が一人居るのだろう。
「キタキタァ!」
クロが怪物の首にしがみつきながら、倒壊したビルの方に視線を向けた。
つられて、レイもひょいと首を上げた。
既に恐怖よりも好奇心が勝っていた。
*
人類の文化の結晶、その一つである大型ビルディングが崩落する様は、島崎畔にもよく見えた。
そして、仲間の鳳凰寺双羽と尾美烏黒が、民間人を護ろうと《SPCT》と対峙しているところも。
ショートボブにした髪は鮮やかなブルーハワイカラー。瞳は新緑を思わせる碧眼。
遺伝子に喧嘩を売っていると糾弾されかねない容姿だが、《SPCTRaS》の戦闘員はむしろコレで正常なのだ。
ぽつりぽつりとまばらに当たる雨粒を払う。
ホトリは通信機の無線をオンになっているのを確かめた上、伝達を開始した。
「強襲班島崎畔より伝達、方位SWからの支援砲撃を行うです。着弾まで十秒」
「了解!」
まだ少女の域を出ない、小柄な体で何を射るというのか。
返答を受け取ったホトリは、すぐに行動した。
真っ直ぐ伸ばした左腕に力が入る。
その手の甲には黄金色の円環。リングの縁は怪しく流動し続けており、今にも何かしらが飛び出しそうに蠢いている。
尾美烏黒の《纏輪》のナイフを剣態とするなら、島崎畔の《纏輪》は銃態。
中でもホトリの銃態は狙撃に特化していた。
「目標、敵性《SPCT》。輪開五光発射」
少女の《纏輪》が突如変貌を見せた。
手の甲に浮かぶ五本の中手骨をなぞるように、同数の閃光が迸る。五条光は空から光が差し込むが如く、敵の巨体に殺到した。
*
「うはっ、御出ませ!」
腕を振り回してもがく《SPCT》に、へばりつくクロ。
名前の通り虹彩から髪色まで、名で体を表した少年が、興奮を隠さずに叫んだ。
レイは呆気に取られて天を仰ぎ続ける。
雲間から覗く光のように、神々しく輝く光の線。
それが計五本、《SPCT》に降った。
両腕、両脚、そして頭蓋。タイムラグの一つもなく貫いたのである。
ほどなくして、光は粒子状に散った。
「オ、ヴ?」
痛覚が通っていないのだろう。全身を統括する中枢部分に鉄パイプ並の穴が開いても、不思議そうに首を捻るだけ。
ずんぐりとした図体を一度揺らすと、《SPCT》は全身を傾けた。
「……」
成り行きを見守っているのか。
そう思われた少女が、両翼の《纏輪》を掌サイズまで縮めていく。
当然、支えられていた《SPCT》は大地に力無く伏した。
「終わった……」
脱力した声が戦場跡を慎ましやかに飾る。
勝利の歓声もない場で、《SPCTRaS》の隊員二人が頷き合い、マニュアルに従うように避難民への指示を出し始めた。
もう一人隊員らしき薄青い髪の女の子が合流し、子供、女、老人と区分けされて避難させられていく。
不快な表情を示す人間は居れど、表立って文句を言う者は居なかった。
単純に《SPCT》を相手に死なない彼らが怖いのだ。
更に加えるなら化け物を殺した彼らの中身にある、人間としての根本を否定しかねない部分が恐ろしいのだ。
「よお、民間人」
「えっと」
(確か、クロっていわれてた……)
レイは混乱がだいぶ引いた頭で彼について考えた。
それほど歳が離れているとは思えない。せいぜい前後一、二歳ずれているくらいのはずだ。
「早く避難するんだぞ」
「うん……」
《SPCTRaS》。
この組織は、レイのような一般人が知るよりも、遥かに狂っているのかもしれない。
ブラック企業ならぬブラック組織。
《SPCT》を相手に戦うのだから、死ぬことも当たり前にあるだろう。そこを考慮すると、ブラックという表現は生温い。
「聞いてるか?」
「え……あー、聞いてない」
「あらっ、さっきも思ったけど意外とのんきな奴だな。いや図太いのか」
「自覚はあるかな」
それはおそらく《暴君》母に鍛えられた賜物だ。
繊細な神経の持ち主は絶滅してしまう、おっかない環境で育った結果である。
予想外の返答に失笑したクロは、レイの肩に手を置いた。それから、何か得心したように避難民の方角に送り出した。
「お前、良い奴だな」
「そうかな」
今の会話劇の中で、レイの人格を捉えられる何かがあったとは考えにくいが、本人が感じたのなら、それは嬉しいことに本当なのだろう。
最も、彼の言う良い奴の基準がどうなっているのかはわからないが。
「そうだよ、ほら早くしないと避難し遅れるぞ」
「じゃあそこの人も一緒に連れて行くよ」
レイが視線を向けたのは、傘を広げ《SPCT》をじっと見つめる少女。
その少女はクロが振り向く前に歩き出した。
藍色のホットパンツの先を隠すストッキングが、傘で覆えなかった部分の雨水を弾く。
(なぜ、傘を持っているんだ?)
《SPCT》の脅威に曝されて、雨具を放り出さずに平静を保てる人間が、果たしてどれだけ居るか。
レイの胸中の疑問に、少女が答えを教えられるはずもなく、いたずらに刹那が過ぎていく。
「ふっ……」
ホットパンツの少女が口の端を僅かに上げて、吐息にも似た嘲笑を漏らした。
声に出さぬ哄笑。
それはレイとクロの二人に向けられていた。
雨に濡れずとも艶のある黒髪のツーテールが、傘の下で揺れる。うなじ付近とテールの先を髪止めで縛った風貌が、特徴的な女の子。
レイは本能的に悟った。この嗤いは人類を嘲っていると。
「無所属の《纏輪》使い……! どこの組織だァ!」
余りに気に障ったのか、クロが嫌悪を剥き出しにして猛った。
左肩から上腕二頭筋にかけて浮き出たのは、ナイフの形状をした《纏輪》。
触れれば断ち貫く、真剣にも劣らぬ凶器を少女に突き付けた。
レイはといえば、クロが少女を一目で《纏輪》使いだと決め付けたことに、驚きを隠せないでいた。
よもや方便ということもあるまい。何か法則性やそれに連なる判断基準が存在するのだろうと判断するしかなかった。
少女がなにげなしに呟く。
「《纏輪》……? それがか?」
脅されつつも少女が臆することはなく、寧ろ侮っているようだった。安物のブランドを見下しているような居心地の悪さを感じさせるのだ。
そして、怒りが溢れる。
「そのお粗末なモノが《纏輪》とは!」
「うっ!?」
体を吹き付ける物は風などではなく、威光だった。神の御使いの降臨をありありと見せつけられている気分である。
レイが眼前にかざした手を退けて、最初に目に入れたのはそういう光景だった。
未だ避難が完了しきらず、集団で固まっていた人々も何事かと首を捻って確かめていた。その次に決まって、皆皆が口元を歪める。
「デケェ……これが《纏輪》だってのかよう」
呟いたまま呆然としても、剣態を維持しているだけクロは優秀な《SPCTRaS》の戦闘員であり、指折りの《纏輪》使いである。
レイは……ただ瞠目するばかり。
その羽ばたきは体を重く打つ雨を払うのみならず、陰鬱とした雨雲まで吹き飛ばしそうな風を生んだ。
疑似的な強風が長く続くことは無く、波打つ風も止んでいた。
「久しぶり」とばかりに空からの雨粒がレイの肌を伝う。
《SPCT》に死を覚悟させられた時、レイは自らの窮地に立ち会った少女を天使と、無礼ではあるけれども、そう批評した。
なんてことは無い。
あの桃色がトレードマークの女の子は、要するにキューピッドだとか、天命を全うされた御仁を迎えに来る天使。
赤子がミニチュアの双翼を宿した、童話などで見られる可愛らしい存在。
一方で人類を導き、時に裁きを与える、神話や聖典上の天使がいる。
「フン。お粗末とは言え、《纏輪》を持つ貴様にも見せてやろう」
彼女は尊大に、それでいて厚顔不遜に言い放った。レイなど眼中に入れず、クロにだけ話しているように。
それもどうせ、道端に捨てられた吸い殻を見るのと同じ感覚だろう。気にする人は気にするとか、そういう次元の話。
レイは言葉を失ったまま、濃厚な金色に煌めく、巨大な一翼を見つめた。
まず飛び込んできたのは、背からはみ出る程に発達した金の円環。楕円形でも、その他歪んだ形でもない。
それは正円を描いていた。
何より、巨大な金色輪から伸びるのは、同じく巨大な金色翼。
場が海ならば盛大な波しぶきを立てて顕現しただろう。誰よりも力強く、何よりも早く羽ばたき、全てにおいて尊くあろうとする片翼。
とても口には出せず、けれどそんな連想にレイは耽っていた。
「……翼」
それは、とてもキレイな、綺麗なツバサをかたどっていた。