第1翼 片翼の纏輪1
半刻前まで活力に溢れる町は、燃えていた。
アスファルトで固められた地面はくり貫かれている。そびえるビル群には奇妙な穴ぼこが散見できた。
今日、またも超常の現象が降臨した。
「ハッ、ハッ」
巨大な人工の建築物の合間をかける影。
極薄のバトルスーツの上に保護プロテクターを着けた正規の戦闘服が、レイの体力を微々に削っていく。
「ハーッ、ハーッ」
「ブォォォォォ!」
「くっ」
吐息にリズムが欠ける頃、レイは近場からの叫声に身を震わせた。
奇声の主はビル一つを隔てているにすぎない。
「ちくしょう、電子ロックか!」
小さな障害にレイが悪態をつく。裏口はスタッフ専用だった。
十のテンキーと《Enter》ボタンがレイを迎える。同時に無法者を拒否するように点滅していた。
急く意思に呼応するように小型通信機から指示が飛ぶ。
『任務状況下における物的破損許可は降りています。速やかにセキュリティを破壊し、上階へ向かってください』
「了解」
指揮者の簡素な命令が明解でありがたい。
レイは拳を握りしめ、遠慮無用に鋼鉄の扉を睨みつけた。
「せいっ!」
素人目に見ても褒められないパンチ。格闘技や喧嘩の経験の無い凡才な突きだった。あろうことか、その一撃はぶ厚い金属をへこませた。合わせて、頑強にセッティングされている蝶番も押し飛ばす。
金属を叩いた感触がじっとりと残る拳を緩める。手の甲を確かめても傷は見られない。
(こんな、化け物な僕にだって)
「やれることはあるはずだ」
壊したドアのぽっかりと空いたスペースを通り抜ける。
飛ばす階段の一段一段が仲間たちの稼ぐ一秒を使う。そうやって激情を混ぜて、心を逸らせる。
斜め上に向けられた矢印の下に『屋上』の文字が見えた。
「この」
災害時に脱出しやすいようにするためか、非常に安っぽい錠前で飾られた扉。大方、隅に設置された半透明の箱に鍵はあるだろうが、関係ない。
「邪魔だっ!」
今度は拳を握る必要すらなく、体当たりだけで突破した。
開けた視界は空に近い場所。夕闇に染まろうとする昏昏とした雲が彼を歓迎している。
「ブォッ、ブォォォォ!」
くぐもった叫びが強くなっている。もう猶予は幾ばくも無い。同時に背中からの鼓動が、熱く全身に訴えかける。
出せ。
広げよ。
羽ばたけ。
普段なら苛つくだろう命令調の文句も今は心地よい。この声に従いたい。そうちっぽけな本能が訴えている。
「待たせたね、僕の翼」
鉄の糸で編まれたフェンスなど我を止めるに及ばず。背に宿る翼は、あたかもそんな高慢を伝え、より強く内で脈打つ。
「飛っべェェェェ!」
男は暗い茜色に照らされた宙へ身を投げた。
1
(今日も雨か)
失敗作の綿飴のようなどんよりした暗灰色の大雲。それを引き立てる淑やかな雨。諸々が合わさり、片翅嶺のため息を誘導させるのに一役買っていた。
「連日雨とはツイてないなあ、この中をいかなきゃ行けないなんて」
梅雨の猛威をまざまざと見せつけられるこの頃。
レイは自室の窓辺から、目にかかる黒髪越しに空を見上げた。
よりにもよってなぜ今日買い物に行かねばならないのか。それというのも全て片翅家の《暴君》、母のせいだ。連日の雨にうんざりし、買い物をサボタージュしたのが事の発端。
「……単行本の新刊、買ってこよう」
無理矢理外に出る理由をこじつけなければやってられない気分だった。
レイはドアノブに手を掛けた。
一階には誰もいない。家族は揃って姉のバスケットボール試合を見に行ってしまった。
静寂でひっそりとした廊下を抜け、玄関を出る。傘を差すと雨粒が小汚なく音を奏でた。
「うー、靴に水が染み込むまえに早く行こう」
もう腹立たしさも湧かない。母にも、雨にも。レイは時間を無駄にしたくない一心で両開きの門を押した。
住宅の密集した地域を通り、家を出てひたすら右方向へ。住宅街から交通の便が捗る道に出て、襲い来る騒がしさに顔をしかめるまでがデフォルトだ。
田舎というわけでも、都会というわけでもない静岡市。レイにとって実に自然体で過ごしやすい。
『先日、東京都◯◯区に《SPCT》の発生が確認されました。この事態に《SPCTRaS》は……』
「最近、物騒だな」
レイは馴染みのある電器店を通り過ぎる。液晶に映るニュースに向けて、不安を込めた一言を呟く。
スペクトと呼ばれる超生物を相手に自分が何かできるわけでもない。敵は、人工物を親の仇とばかりに奪い、人類文明の物質を残さず平らげる化け物。歯向かえば文字通りの無が待っている。
レイみたいな一般人に許されるのは、怯えて禍事をやり過ごすこと。それと次の日の営みに備えることだけだ。
(もしスペクトがこの町を襲ったら僕は……)
「僕はどうするんだろう」
降り注ぐ雨は無数にあるのに、帰ってくる答えはない。何を感傷に浸ってるんだと、傘の突起から落ちる雨粒に説教をされている気分だった。
目指していたブックスチェーン店には思っていたほど客はいなかった。連日の雨天に皆の気分も削がれたのだ。
そんな中で自分はパシリをしている。レイはやりきれない足取りで新刊コミックスの並ぶコーナーに向かった。
「あった、けどもう一冊出てる。同じ週刊だからなぁ、参った」
財布の口を開くと数枚の英世が確認できた。高校生にとって、心強くもすぐに無くなる有能な紙っ切れたち。税込にして四百幾らかのブックスは、着実にレイの財布へダメージを与えるのだ。
だがそれでも買う。
そして、レイは意を決してコミックスに伸ばした手を止めた。
棚と棚の間で品物も決めずにうろうろする少女がいた。その容姿はどこか奇妙に映った。梅雨のじめじめとした湿気が肌を蝕む時期に、ニット帽で頭を綺麗に覆う人物。ついでにサングラスもしていた。
これぞ不審者。
「怪しい、でも可愛いっぽい」
「……? ……!」
視線に敏感な反応を返すニット帽の娘。彼女は不思議そうに首をひねり、レイの視線を受け止める。その直後、慌てて店を出ていった。
レイに怯えて逃げたような、罪悪感の残る立ち去り方。
「あれ……行っちゃった」
もしかしたら仕方のない事情があって変な格好をしていたのかもしれない。デリカシーのない自分を戒めたくなる。
「あの娘が襟元に付けてたバッジ、見覚えがある」
最近……否、少し前にも見た感覚が残っている。鳥は三歩歩くと忘れると聞いたが、それはレイも同じだったらしい。
「んー」
どれだけ思い返そうとしても無駄だ。レイの歪んだスコップでは、記憶を掘り起こすことはできない。
こういう時は流れに身を任せて、思い出すまでそっと触れない。それが冴えない高校一年生の過ごし方だ。
最大の目標スーパーマーケットは、特筆して語るところはなかった。強いて言えば、レイと同じ表情をした人間しかいなかった、だろうか。
絶望のショッピングは、会計を済ませた後も続く。帰路に着いたレイの利き腕を見事に封殺するスーパーバッグ。傘を指すために、一つのポリエチレン袋に商品を詰め込みすぎた。
肘関節の悲鳴が「もう無理」と訴えている。その度にレイは「耐えなきゃ、母さんにシメられる」と返す。我が腕ながら実にワガママに育ったものだ。
もう全て《暴君》母が悪い。軽弾みな責任転嫁をしたところで、レイは公園に入った。
「あー、疲れた! 歩きたくない! もう飛んで帰りたい……」
手製感の滲む屋根付きベンチの真ん中。レイは誰も居ないのを良いことに堂々と占拠した。
晴れた日なら、眼前の砂場をエネルギッシュな子供たちが賑わかすのだろうか。レイは、中学生時代から外で遊ばなくなった自分を下卑した。
「それにしても」
レイは上腕二頭筋から 肘周りの筋肉を申し訳なさそうに摘まむ。
ふにふにふにふにふにふにふにふに。
「これだけ重いもの持ってるんだから、筋繊維の一本や一束、増えてよ」
苦笑いしながら筋肉に問いかけるが、触り心地は相も変わらず。返ってきたのはふにふにの感触だけだった。
十分に休息を堪能し、雨降る外界に戻ろうと立ったとき、不意に携帯端末が不気味に吠えた。
「これ、何の音だ」
不快感を催させる警報音。掌に収まるサイズの端末は唸り続ける。
強制電源のスイッチが入ったのだろう。携帯としても機能するそれは、青年の薄暗い表情を良く照らす。いっそ画面を叩き潰したくなるくらい。
スペクト緊急警報。
簡素な一文がレイのか細い精神を揺らす。地震、津波に次ぐ現代の天災が来るのだ。
「に、逃げ、逃げなきゃ」
荷も傘も、持っていたものは全て置き去りにした。持っていてもどうせ消えてしまう。
目指すところ第一は、避難民を受け入れる駅前地下シェルター。全町民を格納するだけの広さと、数日分の食料が確保されている。
同じ方向に逃げ行く人の群れが見えた。
「僕も早く避難しないと!」
買い物で疲労を溜め込んだ足を、更に酷使した末に出会った。
「あっ……」
幅広い道路を挟んだ白い車線の上、そこに空間を裂く堕天使がいた。
色彩を欠いた全身灰色の肉体に、焦点の合っていない眼球。異質だ。全てが異様だった。地球の生命体をいくつか混ぜた、合成獣のようにも見える。
盛り上がったつるつるの疑似筋肉の上を冷徹な雨が叩き、粗末な飛沫を作った。
レイが初めて目にした皮肉にも悪魔のように見える堕天使、人類が名付けたその名はスペクト。物質を喰らう史上最悪の天変地異存在。
そいつは、小さく醜い膜翼を持つ、獣を模していた。