第九話 罠にかける
午前三時。屋敷の中の誰もが深い眠りの中にいるはずだった。冬馬は、足音を立てずに長い廊下を進み、そのドアを開けた。
もう何年も使われたことのない客間は、少し黴臭いにおいがした。水瀬が趣向を凝らして作らせたという立派な部屋も、時の流れの中で朽ちかけているようだった。それでも、部屋の中央に置かれた天蓋つきのベッドは目を引いた。これはずいぶんと古いもので、フランスの貴族が使っていたという由緒正しい一品だった。常夜灯の微かな灯りで見ても、天蓋の細かな細工や上から垂らされた布の滑らかな質感は見て取れる。水瀬は、客に貴族の気分を味わってもらいたかったのかもしれない。あの人はそういう人だ。
部屋に敷かれている毛足の長い絨毯を踏みしめ、冬馬はベッドに近づいた。やがて、そこに眠っている少年の姿が見えてくる。少年はいま、ぐっすり眠っているように見えた。
この少年を水瀬が連れてきたのは、今朝早くのことだった。
「車の前に飛び出してきて、そのまま倒れたんだ。まさか、放っておくわけにもいかないだろう。うちの主治医にみてもらおうと思ってね」
冬馬はその少年の顔を見て、息が止まりそうになった。
―君はさっきまで、僕と一緒にいたよね。
深夜に起こったすべてのことは、克明に記憶している。彼はこの体の奥深くに存在する精神世界に入り込んだ。そして、殻に閉じこもって震えていた前の持ち主『河名信彦』を意識の階段に引きずり出したのだ。
―まったく……。余計なことをしてくれるよ。
闇の中に落としたので、信彦はまた殻に閉じこもったようだ。信彦は弱いから問題ない。だが、この少年はどうだろう。他人の精神世界に入って、また出てくるのは、きっととてつもない力が必要だ。それほどの強さを持った男なら、放っておけるはずもなかった。
―早く殺してしまわないと。
彼がどうやってこの精神世界に入り込んだのか、その方法を知りたくないと言えば嘘になる。なにしろ、自分が『河名信彦』に入ることができたのは、偶然と言うしかないからだ。
―だけど、この機会は逃せない。この男と二人きりになるなんて、滅多にないはずだ。できる時にやっておいた方がいい。
離れの客間は、周りにも人気がない。例え彼が悲鳴を上げたとしても、距離のある母屋に聞こえる心配はなかった。
「君は忍び込んできた泥棒に殺された。そういうことにしようよ」
冬馬は、胸元に忍ばせてきたナイフを取り出した。それは冬馬の体温を吸って少し暖かくなっていた。冷たいナイフの方が痛くなかっただろうか。そんなことを考えている自分に気づいて、冬馬は苦笑した。どちらにしろ、結果は同じことだ。
「さよなら」
冬馬がナイフを振り上げた時、ふいに少年が寝がえりを打った。それまで見えていなかった顔が冬馬の方に向く。柔らかそうな唇が開いて、そこから細い声が漏れた。
「……信彦……いっしょに……帰るんだ…手を…離すな……」
「君は……」
この少年は、信彦の夢を見ているのだ。昨夜ひどい目に会ったというのに、まだ信彦を助けようとしている。
―こういうのを、『友情』って言うのかな。
冬馬には、その気持ちがわからなかった。他人に執着し、危険を顧みずに助けようとする。あり得ない心理状態だ。
―でも……それ、ちょっと欲しいかな……。
冬馬は、部屋を横切って壁の前に立った。そこには、楕円形の大きな鏡が埋め込まれていた。
「君の体も心も僕がもらった。もう、僕だけのものだよ。だから、君の友達も僕がもらうことにする。どうせそこから出てこられないんだから、いらないでしょ」
その瞬間、胸の奥がチクリと傷んだような気がした。冬馬は眉を寄せ、鏡を睨みつけた。
「なに?反抗するの?むだだよ。だいたい、前にも言ったよね。見せつけるからいけないんだよって。友達ごっこをしてみせたこと、そこでずっと後悔してなよ」
その時、ベッドが微かにきしんだ気がした。振りかえると、起き上った少年と目が合った。少年の目はみるみるうちに大きく見開かれた。
「信彦!?……無事だったのか!」
喜びに満ちた言葉だった。でも、そんなものはいらない。
できるだけ自然に。それでいて彼の希望がすべて打ち砕かれるように、冬馬はゆっくりと言葉を紡いだ。
「誰、それ?」
彼の顔が凍りつき青ざめて行く。思惑通りだ。
「僕は水瀬冬馬。浅黄大学理学部の学生だ。家族は父親が一人。一緒にこの家に住んでる」
「……みなせ……とうま……」
「そう。君は今朝、僕の父親に運ばれて来たんだ。道の真ん中でいきなり倒れた君を、父は放っておけなかったんだよ。君はきっと、まだ具合が悪いんだ。だから、違う誰かの幻を僕に重ねたりする」
「……そんな……」
「もう少し眠るといい。君は疲れてるんだよ」
冬馬がそう言うと、少年は崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
「なんだかつらそうだね」
冬馬はできるだけ優しげな声でそう言って、ベッドのそばにかがみ込んだ。
「『信彦』というのは、君の大事な人なんだろうね。でも、今はちょっとだけその人のこと忘れてもいいんじゃないかな。じゃないと君が壊れてしまうよ」
少年が冬馬を見た。罠にかかった小鹿のような目だ。悲嘆にくれて、どこかに救いを求める目……。小鹿は、罠に掛けた人間が目の前にいることなど知らない。
「……心配してくれるんだね……。僕は君を、ほかの人と間違えたのに……」
「いいよ、そんなこと。ねえ、僕は自己紹介をしたんだから、今度は君の名前を教えてよ」
「……僕は……北見祐一」
「へえ、いい名前だね。なんか、君に合ってる」
「そうかな。そんなこと言われたことないけど」
祐一は、そう言って微かに笑った。彼が自分に向ける、初めての笑顔だった。
「お腹すいてるんじゃないか?なにか持ってこようか」
「いや、食欲はないんだ。……でも、よかったら水をもらえるかな」
「わかった。冷たいミネラルウォーターを持ってくるよ」
「ありがとう」
部屋を出て行きながら、冬馬は笑い声を上げたくて仕方がなかった。なにも知らないこの小鹿を意のままに操ることなど、たやすくできそうだった。
◇◇
金曜日の夕暮れ。商店街は徐々ににぎわいを増していた。週末の開放感を抱えた人々が、ひと時の憩いを求め始める時間帯なのだろう。
怜也はその商店街を、女性を連れて歩いていた。少し目がきついが、きれいな黒髪をした清楚な感じの子だ。傍目から見たら、どう見てもカップルそのものだろう。だが残念ながら、彼女は怜也を見ていなかった。そして玲也もまた。彼女より前を歩く二人連れに視線を合わせていた。
「こんなことになるなんて思わなかったわ」
女が髪をかきあげながらぼそりと言う。怜也はそちらに視線を向けないまま、小さく肩をすくめた。
「まったくね。でも、考えようによっては面白いじゃないか。興味深いデータが得られるかもしれないし」
「失敗のリスクも高まるわよ」
「望むところさ。マリカだって、危険な賭けは好きだろう?」
「あら。わたしは堅実派よ、あなたと違って」
女―マリカは、外見こそ可愛らしい感じに変装していたが、言動はいつもとなに一つ変わらなかった。まあ、可愛らしいマリカがいいのかと言われれば、それはそれで受け入れがたいのだが。
この一週間、怜也はマリカと共に目の前の二人、北見祐一と水瀬冬馬を見張っていた。この二人が直接接触することは全くの想定外で、この後どんな風に展開するのか予測がつかなかった。興味深い実験ではあるが、常に監視を行い、何か事が起こればそれに対処しなければならない。
「ちょっと、お前さん」
その時、足元でしわがれた声が聞こえた。そちらの方に目をやると、シャッターの下りた商店の軒先に小さな手相見の台が出ていて、そこに老婆が座っていた。
「女難の相が出ておるよ」
―ばかばかしい。
自分に近づいてくる女はたくさんいるが、すべて適当にあしらっている。自分は、恋愛という幻想にうつつを抜かしている暇はないのだ。
「『女難の相』なんて、僕にそんなものはないよ、おばあさん。客ならほかを捕まえて」
怜也は老婆の横を通り過ぎた。しかし、声が後ろから追ってきた。
「では、言い方を変えよう、如月玲也。人の道を外れ、鬼畜の所業を行うなかれ。いずれ天罰が下ることになろう」
怜也は立ち止まった。
「マリカ。二人は君が見張って……」
「きゃっ」
マリカの上げた小さな悲鳴が、怜也の言葉を遮った。見ると、マリカの腕に白い紐が巻きついている。それは、まるで意志でも持つようにうねうねと波打っていたが、やがて先端がピクリと持ちあがった。いつのまにかその紐は、鎌首をもたげた蛇に変わっている。暗い顎の中には、二つの牙がきらりと光って見えた。
「なによ、これ!」
マリカが懸命に腕を振っている。
「そんなに暴れたら噛まれるんじゃないかな」
マリカを諌めてから、怜也は老婆の方を向いた。老婆は黒水晶のような瞳で、じっと怜也を見つめていた。
「お前さん方がやっている無益な実験をやめるなら、そのお嬢さんに絡みついている蛇をとってやろう」
「そんな脅しに、乗れるわけがないでしょう」
「そうか。ならば仕方がない」
「やめて」
マリカの声にぎょっとして振り返った。しかしその腕に巻き付いていたはずの蛇は、どこかに姿を消していた。ただ、その辺りが赤いあざになっていた。
「大丈夫か」
「……なんとかね……。ちょっと怜也。あのおばあさん、消えたんじゃない」
マリカに言われて、老婆のいた方に視線を戻す。いつの間に立ち去ったのか、彼女は姿を消し、手相見の台だけがその場に残されていた。
怜也は眉をひそめた。自分たちの邪魔を始めたのは、なかなかの手だれらしい。だが、自分はそんな者に足元をすくわれたりはしない。
「祐一と冬馬も消えちゃったみたいね。これからどうする?二人が立ちよりそうな場所を覗いてみる?」
「いや」
効率の悪いやり方はしたくなかった。妙な奴に目をつけられたとあっては、尚更実験を急がなければならない。
「マリカ。下準備は終わりにして、第二段階に進もう」
「ずいぶん思い切ったことを言うわね」
マリカは呆れたような顔になってため息をついた。
「上の判断を仰がなくていいの?」
「この件は僕に一任されてる。上は僕の才能を買ってるからね」
「そう?まあ、いいわ。今回は怜也がメインでわたしがサブですものね。じゃあ、準備ができたら教えてちょうだい。わたしはちょっと行きたいところがあるのよ」
「行きたい所って?」
「女の子のプライベートをのぞき見するつもり?」
「別にそういうわけじゃないけどね。ああ、くれぐれも被験者に手を出さないでくれよ」
「玲也も心配性ね。大丈夫。一緒に遊ぶ男の子には不自由してないの」
マリカは人差し指で小さく投げキッスをすると、そのまま怜也に背を向け歩き出した。
全く、女というのは扱いづらい生き物だ。なにを考えているのかさっぱり分からない。
―女難の相が出てるなら、相棒は男に変えるべきなのか…。
怜也は自分が考えたことに苦笑しながら、先を急ぎ始めた。