第八話 でも、これからだよ
辺りには、墨を溶かしたような漆黒の闇が広がっていた。息を吸えばその闇が体の中にまで入り込んできそうだった。
顔を上げれば、遥か頭上に赤く点滅する階段らしきものが見える。あんな所から落ちたのに、いま傷一つないということが信じられない。だが、それはつまり信彦の無事を期待していいということにもなるだろう。
「信彦……信彦……」
祐一は信彦の名前を呼んだ。ほぼ同じ場所から落ちたのだから、落下地点もだいたい同じはずだ。しかし、信彦からの返事はなかった。
―まさか……。
祐一は四つん這いになって床をさぐった。意識がなければ、答えることはできない。しかし、手に触れるのは冷たい床ばかりだった。
―あいつはどこに……。
その時、頭上から赤い光が降りてきた。ちょうど階段のある辺りからだ。それはすさまじい勢いで闇を駆け抜けた。
「あっ」
走ってきた灯りから逃げることはできなかった。赤い光を浴びて、一瞬だけ視界が血のような色に染まった。
『……見つけた……』
すぐ後ろからかすれた声が聞こえた。あの、『影』が発していた声だ。考えている暇などなかった。祐一は、はじかれたように走り出した。
占いの老婆は、確か西に向かえと言っていた。追い込まれた頭の奥で、そんな記憶が微かに蘇る。でも無理だ。四方はどこも同じくらい濃い闇に包まれている。方角などわかるはずもない。
その時、疲れ切った足がぐらりとよろめいた。祐一はこらえきれず、床に転がった。回転したからか、三半規管が酔いを感じている。顔を起しても、めまいでぐらぐらした。
『……ねえ…怖い?……』
くぐもった声が正面から聞こえた。闇の中に浮き上がるようにして見えるのは、黒い影の輪郭だ。その影は顔の形も不確かなのに、にっと笑ったように見えた。
「別に怖くなんか……」
言葉とは裏腹に顔がのけぞった。それを追いかけるように、影の手が伸びてくる。じりじりと下がったが、よけきれるとは思えない。
―……もう……だめだ……。
その時、ポケットから何か白いものが飛び出した。それはするすると這ってきて、祐一の腰に巻き付いた。
―……ひも……いや、違う……。
体をうねうねと波打たせ、鎌首を持ち上げる。間違いない、それは白い蛇だった。
『ぎゃっ』
影が悲鳴を上げながら手を引っ込める。一方、蛇は祐一の体に沿ってぐるぐると回り、いつの間にか祐一の体をふわりと持ち上げていた。
「なっ!」
思わず抗ったが、そのまま宙に投げ飛ばされる。赤く照らされた螺旋階段も、底に広がる濃い闇も、あっという間に消え去っていった。
ふいに目の前で、薄い膜のようなものが破れた気がした。突然浮力がなくなって、地面にたたきつけられる。その瞬間、すぐそばですさまじい音が鳴った。車が急ブレーキを引いたような、甲高い音だった。
◇◇
インクのにおいが鼻をつく。薄暗い蛍光灯の灯り、ネズミ色をしたスチールの机……。
ここは新聞部の部室だ。でも本物じゃない。記憶の中の部室……。
信彦は、一人窓辺の椅子に腰かけていた。カーテンを開ければ、外の景色が見えるかもしれない。もちろんそれも、記憶の中の景色だが。
さっき黒い影に触れられた時、忘れていたことを思い出した。あの日桜の木の下で、誰かが自分の意識に押し入ってきたのだ。追い立てられて逃げ回り、記憶の殻に閉じこもった……。
―記憶は強いね。破れない砦だ。
でも記憶の世界では、すべての出来事が予定調和の中にある。そこで過ごすうちに、感覚のすべてが麻痺していった。怖いことは全部忘れて、ずっとここにいたい。弱い自分は、そう思ってしまったのだろう。
―だけど、祐ちゃんが来てくれた。ここに閉じこもっていたら、僕は永遠に今のままなんだよね。僕ひとりじゃそんなことにも気付けずにいたんだ。
信彦はため息をつくと、握りしめていたこぶしを開いた。掌の上に光るのは、銀色の小さな鍵だった。逃げる途中で偶然拾った、祐一が落とした鍵だ。
―ちゃんと逃げられた?祐ちゃん。
祐一がどんな手を使ってここへ来ることができたのかは分からない。でもきっと、とても危険なことをしたのだろう。そこまでして自分を探しに来てくれたことが素直にうれしかった。
祐一とは、小さな頃からいつも一緒にいた。家が近所で、毎日のように遊んだものだ。泣き虫だった自分と違って、祐一は子どもの頃からしっかり者だった。いじめられた時は守ってくれたし、もう少し大きくなってからは、いろいろな相談に乗ってもらった。『親友』というより、『おにいちゃん』に近い存在だったのかもしれない。
でも、もう頼ってばかりはいられないと思う。祐一を、危険な目に会わせたくはなかった。
―僕は一人で戦うよ、祐ちゃん。必ず元の自分を取り戻してみせる。そうしたら、また一緒に遊んでくれるよね。
信彦はもう一度鍵を握りしめた。ここは信彦の精神世界だ。ならば、ここに紛れ込んだ外界の物は、この意志に従うはずだ。掌に集中し、強い思いを込める。
再びこぶしを開いた時、鍵は小さなカッターナイフに変わっていた。
「僕の力なんて、まだまだこんなものか……。でも、これからだよ」
信彦は、カッターナイフを頭上にかざした。薄暗い蛍光灯の灯りの下でもそれはきらりときれいに光った。