第七話 光から闇へ 闇から光へ
鍵を扉に当てた瞬間、部屋そのものがかき消えた。思った通りだ。その仕組みはまるでわからないが、この鍵には空間を切り開く力がある。
「うあっ」
風圧に押されて信彦が倒れ込んだ。祐一もよろめいて、思わず膝をつく。その瞬間、下からふわりと白い光が這い上った。
―ここは、さっきの階段……。
今度は鍵を階段にかざしてみる。もしかしたら、それで元の世界に戻れるかもしれない。しかし、祐一の思いとは裏腹に、階段には何の変化も起こらなかった。
―だめか……。まさか、もう効き目が切れたってことか……?
それでも、いつまでも使えない鍵に執着しているわけにはいかない。祐一はまだ動けずにいる信彦の手を掴んだ。
「信彦。ここを駆け降りよう。きっと、早い方がいい」
「……わかった」
立ち上がった信彦を引きずるようにして、祐一は階段を駆け降りた。段を踏みしめる度、光が這う。まぶしくてたまらない。
「祐ちゃん、待って」
突然信彦が声を上げた。
「疲れたのか?多分、もうちょっとだから……」
「違う!……ねえ、祐ちゃん、この階段……揺れてる」
立ち止まった祐一の足に、細かい震えが伝わってきた。上って来た時には、こんな震えなど一度も感じなかった。
「なんだよ、これ……信彦、急いで降りよう。この階段は……」
祐一は思わず口をつぐんだ。突然階段の段すべてから赤い光が放たれた。それは、むせかえるほど毒々しい赤色だった。
「うわっ、祐ちゃん!」
「行くぞ、信彦」
祐一は信彦をせき立てて階段を駆け降りる。赤い光は、二人の動きとは関係なくちかちかと点滅した。危険を知らせる赤色灯のようだった。
「祐ちゃん!もう、無理だ!!」
揺れは激しさを増し、信彦はその場にしゃがみこんだ。祐一も、信彦の隣にひざをつく。おそらく、さっき上って来た分くらいは降りたはずだ。もしかして、もう一度ここで鍵を使えばいいのだろうか……。
「わあっ」
ポケットから鍵を取りだした瞬間、信彦が悲鳴を上げた。階段の一角が崩れ、そこから黒い靄が噴き出している。靄はその場で凝縮し、たちまち人の形の影を作り上げた。
『…邪魔…すると……許さない…よ』
靄が作り出した人型の影から、低い声が流れ出した。
「お前こそ邪魔するな。俺と信彦はここから出るんだ。」
祐一は震えをこらえて影を睨みつける。影は微かに体を揺らし、あごを引いた。
『そんなことは……させない……』
一瞬、影が消えたように見えた。しかし気がつくと、それは信彦の体に覆いかぶさっていた。
「やめろ!!」
祐一はあわてて声を上げる。しかし影は、信彦を引き寄せながら階段の割れ目へと姿を消そうとしていた。
「信彦!」
「祐ちゃんっ……」
信彦の悲痛な声に、思わず手を伸ばす。その瞬間、手から鍵が落ちて床に転がった。
「あっ」
鍵はそのまま床を滑っていく。だが、そちらに気を取られている余裕はなかった。祐一は、壁の割れ目から消えて行こうとする影に飛びかかった。
「信彦を連れて行くな!!」
『捕まえた』そう思ったのに、突然手ごたえが消えた。両手は虚空をつかんだまま、体が宙に浮く。視線の端に、落ちて行く信彦の姿が一瞬だけ見えた。だがどうすることもできない。そして祐一もまた、抗いながら漆黒の闇の中へと落ちて行った。
◇◇
あのままショパンのノクターンに包まれて、心地よい眠りにつくはずだった。美しくきれいな、優しい場所で。でも、冬馬はそこに行けなかった。ただひたすらに深く落ちる。そして行きついたのは、漆黒の闇だった。
「暗い……」
冬馬は、あがくように両腕で闇をかきまわした。それでも、自分の腕の軌跡さえ見ることはできなかった。
「とうさん!」
冬馬は叫んだ。しかしその声は、闇の中に吸い込まれていくだけだ。不安が喉元まで這いあがってきて息が苦しい。そのまま座り込んだ時、冬馬の遥か頭上に明かりが灯った。その美しさに、冬馬は一瞬怖さを忘れた。
―星……みたいだ。
まだ小さな子どもだったころ、よく誰かと一緒に星を見ていた気がする。その『誰か』の顔は思い出せない。ただ、その人の手のぬくもりだけは、掌の奥に沈み込んでいた。
冬馬が見つめていると、星はゆっくりと闇をよぎって行く。少し遅い流れ星のようだ。
しかし、その光が近づいてくるにつれ、冬馬はその正体が『星』などではないことを知る。それは、遥か頭上から延々と繋がっている螺旋階段だ。階段は、上の段から順番に次々と光っている。冬馬は階段の裏側に広がる闇に立ち、それを物欲しそうに見つめているのだ。
やがて光の残像が、降りてくる二人の姿を照らし出した。一人は知らない男だ。だがもう一人は、冬馬がよく知る男だった。
―お前は……忘れたっていうのか、信彦……。
この場所は、以前信彦のものだった。なのに信彦は、ここから逃げ出そうとしている。あまりにも怖い目に会い過ぎて、その部分の記憶が飛んだのかもしれない。
―隣にいる奴が手引きすれば、信彦はここから逃げ出せるんだろうか……。
奴がどこからどうやってここに入って来たのかわからない。でも、入った所から出れば、外に出られると言うわけだ。だが、信彦を連れていかれては困る。ここから出て、適当な体を見つけられなければ信彦は終わりだ。それはいい。だが、信彦が抜けることでできる巨大な穴を、自分はまだ埋められない。信彦にはもうしばらくここにいてもらわなければ困るのだ。
冬馬は必死になって闇をかいた。かくたびに、少しずつ体が浮いて行く。階段に近づくと、それまで星のように白く輝いていた光が朱に染まり、階段はガタガタと震えだした。この世界が、自分の支配下にある証拠だ。冬馬は最後に、激しく宙をかいた。自分の体は勢いをつけ、そのまま階段を突き破った。
『…邪魔…すると……許さない…よ』
息が上がって、かすれた声でそう告げた。本当に、もう誰にも邪魔をさせる気はなかった。やっとつかみ取った幸せは、何としてでも守り抜くつもりだった。