第六話 懐かしい部屋
「ここは……」
祐一は、そっと辺りを見回した。
薄暗い部屋だった。窓にはカーテンが掛っていて、外の光をさえぎっている。それを補うように蛍光灯がつけられていたが、その光は驚くほど弱々しかった。
置かれている家具は極端に少ない。大きなスチール机といくつかのパイプ椅子、そして資料を入れる棚とホワイトボード、そのくらいだ。でも、資料の本や雑誌が多過ぎてうまく収納できていない。そのため部屋の中央に置かれた机には、たくさんの資料が無秩序に置かれていた。
この部屋のことはよく覚えている。高校時代、放課後になると毎日通った部屋だ。
「……新聞部の部室……だよね……」
「祐ちゃん、見~っけ」
突然、すぐ後ろから声が聞こえた。明るくて楽しげな声だ。祐一は息を飲んだ。
―まさか……。
「祐ちゃんとこの部屋にいると、なんだかあの頃に戻ったみたいだよ。祐ちゃんはしっかりとした部長さんだったよねえ。ほら、言ってみてよ。『そろそろ部活を始めようか』って」
「……信彦……」
祐一が振りかえると、そこに信彦の姿があった。
着ているのは深緑を基調にしたブレザーの上下で、ネクタイもきちんと結んでいる。いなくなった時来ていた高校の制服だ。少し幼さの残る顔も、ふわっとした髪形も、腕にはめている時計も、なにもかもがあの日のままだった。
「祐ちゃん、久しぶり」
信彦は、子犬のように丸い目でまっすぐに自分を見つめてくる。祐一はただ茫然として、その場に立ちつくしていた。もし再会できたらどうするのか。その様子をいろいろと思い描いていたはずなのに、なに一つできはしなかった。
「……信彦。これは、僕が見てる幻なのか?……それとも現実……」
「さあ、どっちだろうね。正直僕にもわからないんだよ」
信彦は手を伸ばして祐一の頬に触れた。指のふっくらとした感触が、肌の上を滑った。
「僕は祐ちゃんに触ることができる。つまり、同じ世界にいるんだ。それだけは間違いないね」
「同じ世界…」
「ようこそ。僕の閉じ込められた世界に。僕はずっとここに一人でいたんだ。寂しくてたまらなかった。祐ちゃんが来てくれてうれしいよ」
信彦の声がはしゃぐ。しかし祐一は、素直に喜ぶわけにはいかなかった。
「『閉じ込められた』って……。じゃあお前は、いなくなってからずっとここにいたって言うのか」
「……どうだろう……よく覚えてない……。僕はあの時桜を見てたはずなのに、気が付いたらここにいたんだよ。どうしてこんなことになっちゃったんだろうな……」
信彦の視線が頼りなげに宙をさまよう。しかしそれは一瞬のことで、信彦はすぐにまた楽しそうな笑みを浮かべた。
「まあ、そんなことどうだっていいか。どうせここからは出られないんだ。僕も、祐ちゃんも」
『出られない』という状況に身をゆだねる信彦を見ていると、背筋にぞくぞくと寒気が走る。信彦はあきらめることに抵抗を感じていない。ここにしばらくいれば、自分もそうなってしまうのだろうか。
「信彦。一緒に帰ろう」
祐一は信彦の手首を掴んだ。骨ばった冷たい手だ。でも、その奥で潜む熱を感じた。命を内包している確かな感覚だった。
「無理だよ」
しかし信彦は、祐一の手を振りほどいた。
「どうして」
「ここから出ることなんてできない。僕は知ってるんだ」
「俺はたったいま、外の世界からここに来た。この世界には入口がある。入口は出口にもなるはずだ」
「でも……」
信彦はその場にしゃがみ込んだ。その背中が微かに震えている。
「……怖いんだ……外に出ちゃだめだって気がする……きっと痛い目に合う……」
「ここにいたって何も変わらないよ。お前は大学で教員免許を取って、教師になるんじゃなかったのか」
「……そうだけど……」
「それに、お前が会いたかったのは俺だけじゃないはずだ。おじさんやおばさんが、どれだけ心配してると思ってるんだ。それから加奈だって……」
「…………」
信彦がゆっくりと顔を上げた。
「……加奈は……まだ僕のこと覚えてる?」
「覚えてるよ。当たり前だろ」
「もう、新しい彼氏ができたんじゃない?」
「まさか。加奈は簡単にあきらめたりしない。そんなこと、お前が一番よく知ってるだろ」
信彦の丸い目に、仄かな光が灯るのが見えた。雲間から見える月光のようだった。
「……わかった……行こう」
信彦の声はまだ震えている。しかし、祐一に向けた視線は揺れなかった。
「よし。ここから二人で逃げ出すんだ」
二人はどちらからともなくうなずくと、そのまま扉に向かって駆け出した。
◇◇
少しだけ、ブランコの速度を緩めてみた。落ちてきた桜の花びらが、膝の上にちょんと止まる。小さな桃色は、ただただ愛らしい。あっという間に散ってしまうなんて、あまりにも馬鹿げていた。
「どうしてそんなに散り急ぐのよ。もっとずっと咲いていればいいじゃない。自分の美しさに跪く人間を見るのは楽しいでしょうに」
「あっという間だから美しいんだよ。儚いものはみんな美しい。もちろん、人間もね」
突然声が聞こえても、マリカは驚かなかった。さっきから気配は感じていたし、だいたい彼がこんな興味深い現場に立ち会わないはずもない。
声の主を無視して、マリカはブランコをこぎ続けた。やがて隣のブランコに細くて長い影がさし、ゆっくりと動き始める。
「北見祐一は飛んだね」
「なんだか人ごとみたいじゃない、怜也。あなたが飛ばしたんでしょ」
「僕は、計算して準備を整えただけだよ。本当に飛べるかなんて、飛ばしてみないとわからないからね」
怜也はそう言って、うれしそうに微笑んだ。笑うと目が細くなってとても優しげになる。この顔に騙された女は、どのくらいいるのだろう。まあ、自分には一切関係のないことだが。
「ねえ、祐一は帰ってこれるの?」
マリカの問いに、怜也は小さく肩をすくめてみせた。
「帰還できれば、データも取れるし収穫はより大きくなるね。でも今回は、飛ぶことができるかどうかが重要だった。だから、彼の帰還を援助する試みは、なに一つなされていないんだよね」
「相変わらずひどいやり方」
「あれ?もしかして北見祐一に興味を持ってるの?」
「そんなんじゃないわよ。ただ……」
ブランコの揺れが共鳴した時、マリカの心は一瞬だけ祐一の心にシンクロした。記憶としても残らない、ほんの一秒ほどの感覚だ。それでも、祐一のことを考えるとわずかだけ心が騒いだ。それは、彼の感情が走り去る時に残した足跡だったのかもしれない。
「ただね、あの子ちょっと可愛い顔をしてたのよ。気の強いウサギみたいな感じかな」
「へえ。つまみ食いしたくなった?」
「さあ、どうかしら」
「うわあ。女って怖いなあ」
怜也は笑いながらブランコを飛び降りた。
「僕は退散するよ。データを分析しなきゃならないからね」
「わたしは祐一の動きを追うわ。もし途中で消滅したら、その座標を取っておくから。もし帰還後に見つけても、つまみ食いはしないから安心して」
「さあ、どうだか」
怜也は軽く片手を上げて、その場を後にした。マリカもまた立ち上がり、玲也とは逆の方角にゆっくりと歩いて行った。