第五話 夜の彼方へ
静寂の中にノックの音が響いた。
「はい」
返事をすると、重厚な木の扉がゆっくりと開く。冬馬はベッドの上に起き上がり、その人を迎えた。
「やっぱりまだ起きていたんだな」
入ってきた白髪の老人が苦笑を浮かべる。冬馬は小首を傾げ、訴えかけるような目をしてみせた。
「今夜は風が強過ぎるんだよ、とうさん。こんな日は、心がざわざわして仕方ないんだ」
『とうさん』
冬馬がこの老人、水瀬をそう呼び始めてから、もう二年が過ぎた。彼は、冬馬の父親にしてはあまりにも年を取り過ぎていたが、そんなことはどうでもよかった。彼は『息子』を求め、自分は保護者を必要としていた。二人が出会ったのは、もはや運命だった。
「やっぱりこの睡眠薬が必要か?」
水瀬はそう言いながら、筋の浮かんだ手を開く。そこには、パッケージにつつまれたままのカプセルが一つ乗っていた。カプセルは、その半分が白、残り半分がオレンジ色で、プラスチックのおもちゃのように見えた。
「もらっていいの?」
冬馬は少し上目遣いになり、甘えるような口調になる。自分がそんな風に言えば、彼はなに一つ断ることはできない。そのことを、冬馬は十分に心得ていた。
「仕方がない。だが、一つだけだぞ。若い体に、強い睡眠薬はよくない」
水瀬はカプセルを冬馬に渡すと、ベッドサイドの水差しを持ち上げてコップに水を注いでくれた。三歳の子どもでもあるまいし、水なら自分で注げる。だが、冬馬の世話を焼くことが彼の望みなら、それを拒否する理由はない。冬馬は「ありがとう」と言ってコップを受け取り、カプセルを水で流しこんだ。
「ねえ、とうさん。とうさんのピアノが聞きたい」
冬馬は水瀬の腕を取って、子どもがするように軽く振った。そしてまた上目遣い。
「しょうがないな」
引退した老ピアニストでもある水瀬は、うれしそうに相好を崩した。
「お前が眠るまで、ここで演奏することにしよう。曲はなにがいいんだ?」
「ショパンのノクターン」
「そうか。いいだろう」
それは、水瀬の得意とする曲だ。でも、冬馬自身もこの曲が好きだった。雨粒の落ちる湖のほとりで、広がる波紋を見つめているような、そんな心持ちになる。そしてその曲に身をゆだねていると、いつの間にか眠りの渦に誘い込まれ、無意識の世界へと心地よく落ちて行くことができる気がするのだ。
―眠りにつく時が一番怖い。意識と無意識の混ざり合う中で、あいつがドアを開けて飛び出してくるかもしれないから……。
もう一度ベッドにもぐりこむと、ピアノの前の水瀬と目が合った。深いしわの奥に光る目が優しい。冬馬はゆっくりとうなずいて、それから目を閉じた。
ノクターンの旋律が鼓膜に届く。落ちてくる雨粒。広がる波紋……。その時、鍵盤の奏でる音に何か別の音が混じってくる気がした。それは、パーカッションのように規則正しいリズムを刻んでいる。
―なんだろう、これ……。ああ、そうか……これは……。
一瞬、子どもの頃の情景が頭の中に広がった。団地の中の小さな公園だ。走って行って小さな板の上に座ると、誰かがそっと背中を押してくれた。
―ブランコだ……。
ゆっくりと視界が揺れる。その感覚が心地よくて大好きだった………。
意識は抗いようもなく落ちて行く。いつもの着地点を通り過ぎ、光のない暗黒の場所へ。
「……とう…さん……」
冬馬は、喘ぐように声を絞り出した。しかし、冬馬の微かな声は、ピアノの音にかき消され水瀬の耳には届かなかった。
◇◇
その螺旋階段には手すりがなかった。ただ、真っ白な段だけがどこまでも続いている。辺りには一様に靄が掛っていて、ここがいったいどんな所であるのか、知ることはできなかった。
「……マリカさん……」
祐一は女の名前を呼んでみた。さっきまで、隣でブランコを漕いでいたはずだ。しかし、祐一の声は靄の中に吸い込まれ消えてしまった。耳をすましてみたが、返ってくる声は聞こえなかった。
―とにかくここを、上るしかないのか……。
覚悟を決めて足を踏み出した。乗せた足の下で、階段が微かな光を帯びる。光は体の上を撫でるように這い上がり、そしてふわりと消えた。
もう一段、そしてまた一段。光の出迎えを受けながら、祐一はその階段を上がった。螺旋階段は緩やかな弧を描き、どこが最後なのかその果てが見えない。やがて足が上がらなくなって、祐一はその場に膝をついた。もう、どうすればいいのかわからなかった。
両手をついて荒い呼吸を繰り返す。その時、胸ポケットのふくらみが目に止まった。
―そう言えばここに鍵が……。
ポケットに指を入れた瞬間、祐一の指先を避けるように鍵がじわりと動いた。
「えっ……」
もう一度鍵を掴もうとする。しかし鍵は勢いよくポケットの外に飛び出し、階段の上に転がった。
『その胸の鍵は大事にしなされ。代わりはそうそう見つからぬ』
商店街で会った老婆の声が、頭の中によみがえる。祐一は体を投げ出すようにして、その鍵に手を伸ばした。
―つかまえた。
その瞬間、辺りの光景が一変した。